ごねんぶりにどめの

時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

担当を掛け持ちすることについて悩んでいるあなたへ

 

昨年、自分が「担当の掛け持ち」について割と真剣に悩んでいたことをふと思い出した。

当時ジャニーズWESTの重岡くんの担当を名乗っていたにも関わらず、突然火が付いたようにKis-My-Ft2の横尾さんに興味を持ち始め、担当って何?わたしの担当は誰?と自問自答する日々を送り、節目節目にブログで気持ちを発散していた。

 

しかし今となってはまるで別人のように、デビュー組だろうがジュニアだろうが少しでも興味を持つとほいほい手を出してキャーキャー騒ぐようになった。6月のKis-My-Ft2のコンサートでTravis Japanの川島如恵留くんにいきなりハマり始めたのがいい例である。

それと同時期くらいに、いっそ担当という概念を持たないほうが楽しいのかもしれない、という自論が芽生えた。1番を決めてしまうから他のものを2番以下にしなければならないんだ、それなら1番なんていらないじゃない、担当なんて宣言しなくてもいいじゃない、と考えるようになった。

 

そのようなことを考えていた折、昔読んだ一冊の本を思い出した。平野啓一郎著『私とは何か―「個人」から「分人」へ』という新書である。

ざっくり言うとこの本では、人間を、分けることの出来ないひとつの「個人」ではなく、分けることの可能な「分人」として考えよう、という話をしている。別の言い方をすると「オモテの顔/ウラの顔」「本当の自分/ウソの自分」というモデルを廃し、すべて「本当の自分」であるという見方をしようという考えを提示している。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p7

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは必ずしも同じではない。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p7

 

これを掛け持ちの話に当てはめてみる。

まず一人の人間を「個人」として捉えると、「Aくんを好きなわたし、Aくん担当のわたしが本当の自分。最近Bくんのことが気になっているけど、本当に好きなのはAくんだから、Bくんを好きな自分は本当の自分じゃない」となる。つまり「Aくんを好きな個人」として存在していることになる。

一方「分人」という概念を導入すると、「Aくんが好きだけど、最近Bくんが気になってきた。Aくんを好きな自分とBくんを好きな自分が同時に自分の中に存在している」となる。こちらは「Aくんを好きな分人と、Bくんが気になってきた分人が、共存している個体」ということになる。

前者は、過去の自分のように、自身の中での「わたしは一体誰が好きなのか」という葛藤が生じる予感を匂わせる思考回路だが、後者は分人同士がぶつかり合うことなくフラットな関係が成立している。

つまり特定の人物の担当を名乗るということは、そうではない自分をまるでニセモノのように扱うことにつながりかねない。しかし、Aくんを好きな自分もBくんを好きな自分も自分の中の「分人」として等しく扱うことで、好きな人が増えた自分をすんなり受け入れやすくなる気がする。

 

誰かを愛することは、誰かを愛している自分を愛することでもある。Aくんを好きな自分のこともBくんを好きな自分のことも等しく好きならば、それでいいのだと思う。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。(中略)他者を経由した自己肯定の状態である。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p136

 

実際に自身を顧みて思うのは、新しく誰かを好きになった自分に出会うことは、シンプルに楽しい。Aくんを好きな自分とは違う、Bくんを好きな自分に向かって、「お前そんなヤツだったんだ!知らなかったよ!」と思わず声をかけたくなる。同じ人間の中で起きている出来事のはずなのに、まるで親しい他人がいきなり出来たような感覚に陥る。

おそらく大抵の人は、人に頼まれたから誰かを好きになっているわけじゃない。誰かを好きになるのは、すべて自分の選択の結果だ。だから、好き勝手にいろんなものを愛して、その度に新しい自分と出会って、その出会いを純粋に楽しめばいいと思う。他人を愛することは、未知の自分に出会える有効的手段なのだから。

 

 

この世界にどれだけ存在するか分からないが、もし過去の自分のように、掛け持ちについて悩む人がいれば、複数のものを愛したくなった自分を受容しやすくなる思想として、頭の片隅に入れてもらえたら嬉しい。わたしは今、たくさんのものを好きになることが、只々楽しい。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 

 

わたしのだいすきな内くんの話

 

ツイッターでフォローしている数人の内くん担の頑張る姿を見て、わたしも愛するひとのために出来ることをしよう、と思いこのブログを書いている。このブログの目的は内博貴さんのダイマを全力で行うこと」「Summer Paradiseの内博貴さんの講演に興味を持ってくれる人を一人でも増やすこと」です。

 

 

 

 

とりあえず、8月に内くんがこんなことをするんですよ、という紹介の目的で、脈絡なく【Summer Paradise 2018 内博貴公演】についての概要を最初に載せる。

◎日時
2018年8月26日(日) 17時
2018年8月27日(月) 13時/17時

◎場所
TOKYO DOME CITY HALL

◎プレイガイド
チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:121-405)

◎リンク

Concert・Stage(ジャニーズJr.) | Johnny's net

 

 

はじめに―わたしが内くんを応援する理由―

去年内くんの誕生日に書いたブログを以て、わたしの内くんに対する思いについての自己紹介に代えさせていただければ幸いである。

 

 

わたしは去年、数年ぶりのステージで歌う機会だったというのに、内くんのライブに行けなかった。行きたくても行けなくて、めちゃくちゃ悔しかった。そもそも、わたしは内くんが歌っている姿を一度も肉眼で見たことがない。テレビの画面を通してしか見たことがない。そのせいでようやく、アイドルとして歌って踊る内くんが見たいという自分の中の欲求に気付かされた。

内くんは、舞台班だけの人じゃないし、船から落とされるバラエティ班だけの人でもない。彼はわたしのなかではずっとずっとアイドルとして生きてきた。だから、内くんのことを知らない人にも、彼がアイドルとしてステージに立っている姿を見てほしい。去年の自分のように、仕事や在住地の関係で来ることのできない人がいるのは百も承知だ。それでもわたしは、一人でアイドルとしてステージに立つ内くんを見てくれ、と言いたい。

 

『Master key』はヤバいし内くんはスゴいんだぞ

内くんってそもそも歌えるの?という方に、一応テレビの動画なのでリンクを貼るかどうか悩んだが、まずは約3分のこちらの動画を見ていただきたい(怪しいサイトに飛んだりしないから安心してね!)。

ますたーきー - YouTube

こちらは現在放送中の関ジャニ∞冠番組関ジャニ∞のジャニ勉』の前身番組『ほんじゃに!』で放送された、内くんのソロ曲『Master key』である。自分で調べてみた感じだと、おそらく2004年、つまり今から14年前なので17歳か18歳頃の映像である。ぶっちゃけ映像は荒くて誰が映っているのかわからないレベルだが、注目してほしいのは歌声なので、よしとして話を先に進める。

 

前述の動画の内くんの歌声を聞いたうえで、こちらの動画をみていただきたい。

Master key/内博貴 - YouTube

こちらの動画は今年の1月(収録は去年の12月)に放送された映像なのだが、みなさんお気づきだろうか。

 

声、昔と同じじゃん!?!?!?!?

 

そう、内くんは、このバカみたいに高音な若かりし頃のソロ曲『Master key』を、2018年になっても原曲キーのまま歌っているのである。

実際、内くんはライブについてこのように話している。

『Summer Paradise 2018』は、今年もJr.時代の曲を中心に構成を考えようと思ってる。(中略)あとな、Jr.時代の曲、全部キーが高いねん!10代のころの曲をいまの俺が歌うんだよ?(笑)去年も原曲キーのまま歌ってめちゃくちゃ大変やった。高いキーを何度も出すために、練習では『Master key』を何度も歌う。この曲は、声変わり前の16才のときのやから、かなりしんどい!でも、この曲を歌い込むと、ほかの曲もラクに歌えるようになるんだよね。

―『Duet』2018年8月号

 

すごいな!?めっちゃストイックでめっちゃカッコいいな!!

ここ数年だと、A.B.C-Z冠番組『ABChanZoo』でA.B.C-Zのメンバーが作った船から落とされるという、なんともテレ東的なバラエティ企画が主な地上波の露出なので、関西弁のバラエティ班のお兄さんかな?という印象を持っている人もいるかもしれないが、それは断じて否定させてほしい。

内くんの歌声は最高だ。ジャニーズの中で代わりを探しても見つからない、唯一無二の歌声だ。『Master key』を歌った内くんに対してA.B.C-Zの河合さんが「内くん以外この声出ない」と言っているが、お世辞じゃなく本当にそう思う。歌が上手いというより、魅惑的な声をしているという表現が合っていると思う。喋ると普通の関西人のニーチャンなのだが、ひとたび歌いだすとこのとんでもなく甘くて艶っぽいべっこう飴のような歌声。ギャップがすごい。

 

そんな内くん、先週ジャニーズwebの連載で「マスターキーは絶対歌ってほしいんでしょ」「原曲キーで頑張る」という旨の煽りを読者に向かってかましてきたので、大いに期待している。

ずっとずっと大好きな『Master key』を聴くことは、いつのまにかわたしのささやかな夢になっていた。この機会を逃したらもう内くんのライブなんてないだろうと思いながら、泣く泣く諦めた去年のソロコンサート。それなのに今年、チャンスが来た。メールで送られてきたSummer Paradiseの出演者リストを見て、手が震えた。神様はいるんだと思った。今年こそ行く、死んでも行く、なんのために仕事してんだ、と思った。

そんなわけで、去年の恨みを晴らすべく、今年は3公演すべて行きます。

 

ウチ(くんのコンサート)においでよ

昨日更新されたジャニーズwebの連載で「夏のライブが最後かもしれない」「悔いの残らない内容にしたい」と内くんが話していた。

わたしははじめ、その文章を読んで「内くんも何かを悟ってるのかな、事務所の人に何か言われてるのかな、まあ本人がそう思うなら仕方ないかな」と、悟った風な受け取り方をした。チケットの売れ行きが芳しくないのかもしれない、内くんが一人でTOKYO DOME CITY HALLを埋めるのが難しいのかもしれない。

でも、自分の観測範囲にいる内くんの担当の人たちは逆に火がついているような人に見えて、「これはわたしも何かするか」と思ってこの文章を書き始めた。SNSの感情の増幅効果に初めて感謝した。「これが最後かもしれない」と思いながら見るコンサートなんて、たぶん全然楽しくない。最初からお涙頂戴みたいなテンションで臨むコンサートって何だよ!「こんなに素晴らしいコンサートなら次もあって当然だろう!」と、根拠がなくても希望を持ちたい。

 

でも、残念なことに、自分が数千字の文章を書いても、内くんの魅力をこれっぽっちも伝えられている気がしない。実際わたしはこの記事で「Master keyはいいぞ」くらいしか言えていないし、ブログを読んだ人に伝わっているかすら謎である。

わたしの書いた文章なんかを読むより、実際に内くんを見た方がマッハで内くんのことが分かると思う。

だから是非、お時間のある方は、今月末に東京で開催される内くんのソロコンサートに来てください。わたしの大好きな内くんを見てください。多分プレイガイドも譲りチケットもあるはずだから、お好きな方法でお越しください。一ヶ月を切っている予定の都合をつけるのは難しいと思うけど、去年と違って休日公演もあるし、平日公演だって今こそ有給の使い時です。

どうか、どうかよろしくお願いします。ここで再度ソロコンの概要を。

◎日時
2018年8月26日(日) 17時
2018年8月27日(月) 13時/17時

◎場所
TOKYO DOME CITY HALL

◎プレイガイド
チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:121-405)

◎リンク

Concert・Stage(ジャニーズJr.) | Johnny's net

 

 

 ちなみに初めに引用した内くん担の華さんのブログにもありますが、内くんは関ジャニ∞にいた頃のメンカラがピンクなので、ピンク色のペンライトをお持ちいただくとよいかと思います(サマパラは単独のペンライトの販売がない)。わたしは家にあるピンク色に光るペンライトを探したところ、ジャニーズWESTの雪だるまペンラ、Kis-My-Ft2のミューコロペンラが見つかったのでそれら2本と、購入予定のA.B.C-ZのマジカルLOVEスティックの計3本を持参する予定です。

 

わたしと一緒に、初めての内博貴体験を、しましょう。

 

 

 

 

 

舞台『コインロッカー・ベイビーズ』が良すぎたので原作を読んで考察してみた

 

7月24日、A.B.C-Zの橋本くんと河合さんが主演を務める舞台『コインロッカー・ベイビーズ』を観劇した。

 

 

2016年に初演となった舞台の再演だったが、初演再演含めこの回がわたしにとって最初で最後の『コインロッカー・ベイビーズ』となった(再再演があればまた話は違ってくるが)。約2時間というけして長くはない公演時間だったが、密度の高い舞台だった。それゆえに、公演時間内では解釈が追い付かない箇所もあり、終演後のもやもや感を払拭すべく、原作本を読んだ上で本作品についての考察を試みた。

 

 

原作ファンの方が書いた上記のブログも、原作本に手を出す後押しとなった。原作未読時点での舞台の解釈に大変参考になったので、コイベビへの理解を深めたい方にはおすすめしたい(当記事に上記ブログと似た記載が見られることもあると思いますが、原作を読んだ上で改めて強く思ったのだと考えていただければ幸いです)。

主に原作について触れていきながら、舞台を見た際の疑問を解消していく形で考察を進めたいと思う。

 

※ 舞台の内容や、舞台と異なる原作の展開のネタバレが多々あるため、これ以降の文章は自己責任で読んでいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

Q. なぜ精神科医が突然登場してきたのか?

A. ハシとキクに自閉的な傾向が見られ始めたから。

 

まず、舞台では細かく演じられていなかったが、ハシとキクの関係性を知る上で重要なのが幼少期のエピソードだと、原作を読んで感じた。ハシとキクがどのようにして強い関係性を築きあげる過程が分かるし、舞台ではさくっと出てきた部分の前後の文脈も分かる。例えば、わたしは舞台の冒頭で精神科医が登場した理由が観劇中に理解できていなかったのだが、原作を読んですんなり理解することができた。

 

ハシ(溝内橋男)とキク(関口菊之)は共にコインロッカーに捨てられた子供だったが、初めて出会ったのは乳児院に収容されてからしばらく経ってからのことだった。 

この頃(=走ることのできる年齢/キクが養子としてもらわれずに乳児院に残っていた頃)キクはまだ自分がコインロッカーで生まれたことを知らされていなかった。それを教えたのはハシという子供だ。溝内橋男も売れ残りの仲間だった。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p9

 

その後キクは、病弱なハシを助ける存在となり、二人で一人の人間を構成するかのような関係性を構築する。

キクはハシがいじめられたりすると必ず助けた。(中略)キクにもハシが必要だったのだ。キクとハシは肉体と病気の関係だった。肉体は解決不可能な危機に見舞われた時病気の中に退避する。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p11

 

しかしその後、病弱さ故にキクと遊ぶことができなくなったハシは、あらゆる物を規則正しく並べ、その変更を許さない奇妙な飯事(ままごと)に興じるようになる。また、自分という“肉体”から独立したハシを見て、キクも乳児院を抜け出し遠くへ行きたがるようになる。

彼らが何らかの病気に罹患していると考えた乳児院のシスター達は、二人を精神医へ連れていく。精神医には一種の自閉症だと言われる。

自閉症には、“豊かな自閉”と“貧しい自閉”の二種類があって、外界と切り離された患者の精神状況が空っぽの場合、“貧しい”、豊かな精神世界がある場合“豊かな自閉”とこう呼ぶのです。この溝内橋男はもちろん豊かな自閉です、このように想像力に満ちた作品を造るのですから。次に、関口菊之の場合ですが、この子は静止恐怖を訴えて急激な空間移動を欲しているにもかかわらず、それは外界への積極的な関与とはなっていません、むしろそれは急激な運動によって自分の中へ入っていく試みだと思います、何者かが自分のすぐ傍で轟音と共に飛び立とうとしているという彼の強迫観念は、実は、自分を恐れているのです。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p16-17

 

個人的な感想だが、舞台では出てこなかった(気がする)「自閉」というキーワードを聞いて、ハシとキクの異質さに「ああ、なるほど」と合点がいった。以前読んだ自閉症関連の書籍に、「自閉症の人は、一見外からは理解できないような言動も本人にとっては整合性のとれたルールの下で行っている」といった内容が書かれていた気がする(当時の読書の記録がなく記憶に頼った話をしているので間違った解釈だったらご指摘お願いします)。二人だけしかいない世界を走り回っているようなハシとキクの行動が、その解釈をあてがうことで腑に落ちた感じがした。

 

 

Q. ハシはなぜ心臓の音を希求していたのか?

A. 弱い自分が変わるきっかけとなった音だったから。

 

舞台で事あるごとに「音が」「音が」と言っていたので重要度の高さは伝わっていたのだが、「あれ、どうしてあんなに音を聞きたがっていたんだっけ?」と、見終わってから改めて考えてみると、きちんと説明できない自分がいた。また、原作を読むことで、能動的に音を聞きたがっていたのはハシで、キクはそれほど音に対する関心がないのだ、ということをきちんと認識できた。

 

里親の和代に連れて行ってもらったデパートで催眠術にかかってから、ハシは「音」を捜し始めるようになる。

キク、僕はね、別に狂ったわけじゃないんだよ、ある物を捜してるんだ、憶えてるかい?病院に行って、映画を見ただろう?(中略)あれね、音なんだ、僕達ね、あそこで音を聞いてたんだよ、その音を僕は催眠術の中でもう一度はっきり聞いたんだ、驚いたね、キク、きれいな音だよ、死にたくなるようなね、きれいな、それでね、僕、テレビの中からその音を捜してるの、全部の音を聞こうとしてるんだよ、(中略)この世の中のね、ね、音を全部憶えたいんだ、あの、僕達が、病院で聞かされた音の正体がわかれば、僕、学校に行くよ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p59-60

ハシはテレビの音をほとんど暗記したそうだ。でも、目的の音は探せなかったらしい。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p60

ハシは三ヵ月間音ばかりを聞いたから、聴覚が鋭くなっていた。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p66

 

乳児院で“奇妙な飯事”に興じていた時のように、あらゆる音を延々と聞き続けたハシ(テレビの音を暗記するまで聞きこむというのも、やはり自閉的な行為だと思う)。

彼をそうまでさせた理由は何だったのか。ハシは、催眠術にかかり失踪した日を境に“自分の欲求”と出会い、“何をしたいかわかった”と話す。  

記憶を丹念に辿るとある出来事を境にして二種類の自分がいたことに気付いた。その事件が起きる以前、自分はずっと被害者だった。役割や使命に気付いていなかったために能力は眠ったままで他の関係ない価値の基準に従い縛られて、弱虫と呼ばれていた。鉄棒ができない、ただそれだけの理由だ。それだけでみんなは不当に僕を怯えさせた、僕が自分で自分を嫌いになるように仕向けた、あの出来事以来だ、僕が自分に潜んでいた欲求に目覚めたのは、何をしたいかわかったのは、僕が音を捜し始めたのは、あの日僕の性器を犬のように舐めていた大男を煉瓦で殴った時からだ。
(中略)そんなことはない、案外大事なのは僕が煉瓦であの男の尖った頭を叩き潰したことだ、時には、僕を忠実に愛している者の頭を叩き割ることが必要だ、何のために? 自分の欲求と出会うためにだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p246-249

本当は、歌手になるのではなくて歌手として生まれてきたかった、歌手になる前の僕は死んでいた、笑いたくないのに言われるままに笑う焦点のぼやけた写真の中の人物だった、歌手になる前の僕をずっと過去に遡っていくと怯えて泣いている裸の赤ん坊がいるだろう、箱の中で薬を振り掛けられて仮死状態のまま見捨てられていた赤ん坊だ、これまでずっとそうだった、僕は歌手になって初めてコインロッカーの外へ出ることができたんだ、仮死状態の自分は嫌いだ、仮死状態で住んでいた場所はみんな爆破して消してしまいたい。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p224

 

ハシは過去の自分を「被害者」「仮死状態」と表現しており、“歌手になって初めてコインロッカーの外へ出ることができた”と話す。 つまり、ハシは「音」を聞いたことがきっかけで、弱い自分を捨て生まれ変わることができたと考えている。

このことから、ハシが大男を煉瓦で殴って手に入れたと考えている「欲求」、言い換えると「ハシ自身が当時潜在的に自分が求めており、実際に手に入れることができたと考えているもの」は、「強い自分」なのだと考えた。

 

では、弱虫ではなくなったはずのハシは、「音」を聞いて今度は何を手に入れたがっているのか。 

僕ね、恐いんだ、自分が誰なのかわからなくなる時がある、鏡を見ても誰だろうと思ってしまう、体が二つに裂けて別々に動いてる感じなんだ、(中略)僕はね、体が二つに割れて頭がいつも痛くてわけのわかんないものに怯えてるだろう? だからあの音を聞きたいんだ、どうしたら聞けるのか考えていたら、蠅が教えてくれた。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p447-448

 

歌手になり有名になったハシは、精神を病み、自己が分裂したような感覚に陥り始める。鏡に映る自分が誰だか分からず、見えないものに怯えながら日々を過ごす。

ハシは、「音」と再び出会うことによって、自己を統合させ完全体となった「強い自分」を手に入れようとしていたのではないか、と考えた。つまりハシは「音」を、自身を劇的に強くしてくれる魔法のような存在として考えていたと考察した。

 

しかし皮肉なことに、ハシよりも先に「音」の正体に気付いたのは、一緒にその音を聞かされていたキクだった。

キクは既に思い出していた。はっきりと思い出した。(中略)あの音、ハシと一緒にゴムが貼られた部屋で聞かされた音、ハシ、あれは窓の外の雨垂れの音じゃないぞ、ハシの推理は間違っていない、屈折と透過を経て永遠に続くという安心感を与える音、心臓の音だ、あの精神医の部屋で聞いたのは、心臓の音だ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p358

キクは思い出したように突然、ハシ!と叫び面会室に走ろうとした。看守が引き留める。ハシ!あの音は、心臓の音だ、聞こえるかハシ!お前を産んだ女の心臓の音だぞ!キクの声は廊下中に響き、桑山、狂っているのはお前のほうじゃないか、看守がそう言って笑った。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p450

 

一方ハシはというと、ニヴァに包丁の刃を向ける寸前になってようやく「音」の正体に気が付くことになる。 

突然ハシはギクリと身震いして目を開けた。音が聞こえたのだ。自分の体を流れる血の音。腕の血管を移動する血の音。細かな波がある。一定の間隔で波が起こっている。ハシは耳を澄ませた。この音だ、と呟いた。ニヴァを殺すために、やっぱりこの音が聞こえてきた、この音は最大限の勇気を与えてくれる、わかったぞ、心臓の鼓動だ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p495-496

 

上記引用から、自分の聞きたがっていた音が心臓の音と気付いた時すら、ハシは音を「自身を強くしてくれるもの」と考えていることが分かる。しかしニヴァに向けた刃先をその腹部へ突き刺そうとした瞬間、音は止んでしまう。

結局心臓の音は、ハシの考えていたような「人を強くする音」ではなく、むしろ真逆の、幼少期に二人がその音を聞いていた目的通りの「人を鎮める音」だったのだと思う。幼いハシが煉瓦で大男の頭を殴った時も、キクが母親を撃った時も、ハシがニヴァを刺す時も、全て神経が高ぶり人を殺めた(殺めようとしている)時に、心臓の音は聞こえている。ハシは「人を殺せば聞こえる音」と考えていたが、「人を殺すほど危うい精神状態になった場合に聞こえる音」という解釈が正しかったのではないだろうか。

また、ハシがニヴァを刺す時の描写から、自身の心臓の音が興奮のあまり自身の耳に届いている、と解釈することもできるように思う。そのような状態になったら気をつけろ、血液が沸騰するほどの気の高ぶりは身を滅ぼすぞ、というある種の警告音として、自身の内側から鳴り響いていたのかもしれない。

 

舞台には登場しない場面のため余談となるが、母子ともに一命をとりとめたニヴァに面会に来たハシが病室で拘束された場面(舞台ではニヴァは死んでしまっている)に、以下のような描写がある。 

ハシはテレビカメラを覗き込んでいる。レンズの表面に暗い虹が見える。ハシの顔が映っている。口にゴムの球を詰め込まれて泣いている痩せた顔、僕だ、僕の顔だ、とハシは思った。ゴムに潰されている喉の奥でハシは何度も呟いた。レンズに映る歪んだ泣き顔に呼びかけた。どこに行ってたんだ、ずいぶん捜したんだよ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p538

 

求めていた強い自分とは真逆の、身体を拘束され自由を奪われた不自由な状態になっているにも関わらず、ハシはレンズに映った自分を自分だと認識できるようになっている。つまり心臓の音を聞いた後、ハシは自分の望んでいたように、自己の分裂した感覚を消失させることには成功しているのである。なんとも皮肉めいた、無情なワンシーンだな、と感じた。

 

 

Q. キクは何故あらゆるものを破壊したがったのか?

A. 世界の閉塞感が、自分の生まれたコインロッカーのイメージに重なったから。

 

舞台では、刑務所でキクが壁にぶつかっていくシーンが最もその理由を象徴している。その場面にあたる原作の引用が以下の文章である。

会ったこともないような奴らがよってたかって俺達に勝手なことを言う、そうだ何一つ変わっていない、俺達がコインロッカーで叫び声をあげた時から何も変わってはいない、巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに俺達は住んでる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが俺達を蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、壁は上手い具合に隠されている、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている、方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p449-450

 

 この部分の描写を見ると、キクは刑務所に入ってからもなお、「ハシと二人で住み続けているコインロッカー」から解放されるためにあらゆるものを破壊したいと考えていると受け取ることができる。

一方、破壊の手段としてキクが選ぶのは、神経兵器「ダチュラ」。ダチュラとは元々小さい頃に島で出会った男ガゼルに聞いたおまじないだったが、実はその正体が恐ろしい兵器の名だったのである。

「親を殺したいと思うだろ? 産んだやつをよ」
「誰だかわかんないんだよ」
「片っぱしから殺していけばいつかそいつにあたるよ」
「関係のない人はかわいそうじゃないか」
「お前には権利があるよ、人を片っぱしからぶっ殺す権利がある、おまじないを教えてやるよ」
「おまじない? 何の?」
「人を片っぱしから殺したくなったらこのおまじないを唱えるんだ、効くよ、いいか覚えろよ、ダチュラダチュラだ」
「ラチュラ?」
ダチュラだ」
ダチュラ
「忘れるなよ、きっと役に立つぞ」

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p63

 

原作の説明を読むとダチュラの兵器としての圧倒的な能力がすぐに理解できる。

ダチュラ」を服用するとまず記憶を完全に喪失することから始まり、想像を絶する恍惚に包まれる。(中略)服用者は絶大な快感の中で破壊を開始する。(中略)服用者は、目に入る物はすべて破壊し、生物を殺して続ける。彼は、殺されるまで止めない。殺す以外に彼を制する方法は、ない。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p170

 

舞台と原作のいずれを見ても、ダチュラはガス状の兵器と推察される。すなわち選択性の低い殺人兵器であり、ハシを巻き込む可能性もあれば、自分すら餌食になる可能性がある。自分を支えてきた“おまじない”で破壊行動を遂行したい心理も理解できなくはないが、もっと安全な方法もあったのでは、という疑問もぬぐい切れない。

俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p551 

俺は飛び続ける、ハシは歌い続けるだろう、夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、俺達はすべてあの声を聞いた、空気に触れるまで聞き続けたのは母親の心臓の鼓動だ、一瞬も休みなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p552

 

その疑問にあえて答えを出すのであれば、キクのハシに対する絶対的な信頼度、という言葉しかわたしには思いつかない。真夏のコインロッカーから生まれた赤ん坊。心臓の音を聞かされた子供たち。生まれながらにして付いた傷が彼らの誇りとなり、生への圧倒的なエネルギーとなる。

単純に、キクの目的が「世界の破壊」でしかないのなら、ハシのことを二の次に考えてもおかしくはないか?と考えもしたが、こればかりは原作を最後まで読んでもはっきりとした自分なりの答えが出せずじまいだった。

 

なお原作では、世界よりももっと照準を絞って「東京」が破壊の対象となっている。

母親を捜しに行くと言って東京に出て行ったハシを、キクは里親の和代に同行して一緒に捜しに行く。しかしハシは見つからないまま、宿泊していたホテルでひっそりと、体調を崩して休んでいた和代は息を引き取ってしまう。和代の死に気が付いたキクは、シーツにくるんだ死体の横でひとり考える。 

閉じ込められている、そう気付いた。ガラスとコンクリートに遮断されたこの部屋、閉じ込められたままだ、いつからか? 生まれてからずっとだ、柔らかなものに俺は密封されている、いつまでか? 赤いシーツを被った硬い人形になるまでだ、(中略)東京がキクに呼びかけている、キクはその声を聞いた、壊してくれ、全てを破壊してくれ、(中略)キクの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現した。夏の記憶だ。十七年前、コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現わし始めた。どんな声に支えられて蘇生したのか、思い出した。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p125-126

 

熱気のこもったホテルの一室は自分が捨てられた真夏のコインロッカーを想起させ、里親が死んだ恐怖と虚しさは怒りに変わる。劣悪な環境のコインロッカーの中で聞こえていた、破壊を期待する声と同じものを、和代が死んだホテルの一室で再びキクは聞いたのである。こうしてキクは、怒りの矛先を東京に向けることとなる。

おそらくこの場面は舞台で演じられなかったと思うが(化粧するハシに向かってキクが「和代が死んだ」と言い放っただけだった気がする)、破壊衝動を広い対象に向けた場面は、原作では刑務所のシーンよりもこちらが先に登場している。

ちなみに舞台と原作では、キクが船を脱走するところからダチュラを手に入れるあたりまでは内容が結構違う。舞台では怒涛のシーンが間髪入れずに続く印象だったが、原作のでは一つ一つの場面の緊迫感が高い上に内容のボリュームもあるため、よりハラハラさせられる。

 

 

余談中の余談「アネモネかわいい!」

ブラックな場面も出てくる中、舞台では山下リオさん演じるアネモネのかわいらしさ、好意の真っ直ぐさにはついつい表情が緩んだ。

 

原作を読んで、舞台で最もきゅんとした上記の会話が舞台オリジナルであったことを知った(仕事を持たないと面会不可と言われてキクとの面会を断られている場面は原作に出てくるが)。しかし、逆に原作にしかない、アネモネの大変健気で可愛らしい行動もあったので、やはり原作を読んで大正解だった、と心の中でひとりガッツポーズをした。その引用を以てこの記事を終わりにしたいと思う。

その夜にアネモネはキクのクリスマスプレゼントを解いたのだった。プレゼントは本でオムレツその全て、というものだった。一八二ページにオムライスの作り方が載っていた。キクはその部分を赤い線で囲んでいた。アネモネは卵を二百個買ってきてオムライスを作り始めた。足りなくなった材料を補充して行く以外はずっと部屋に閉じこもり起きてから寝るまでオムライスを作り続けた。部屋は卵だらけになった。アネモネはベッドを除いて部屋の床の全てを薄焼き卵とケチャップ御飯で埋め、それを眺め回してバカみたいと呟き短い間声を出して笑い、やがて全身が痙攣するまで泣いた。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p312

 

「何故オムライス?」「キク本人は?」「なんで泣いてるの?」と何かしらの疑問符が浮かんだ方は、是非原作を読むことをおすすめしたい。個人的に大好きなシーンです。舞台でやられていたら、ときめきすぎて死んでいたに違いない。

 

 

残りの大阪公演と富山公演も、何事もなく成功しますように。素晴らしい作品をありがとうございました。

 

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)