ごねんぶりにどめの

時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

「好き」ぐらいしか晒せるものがないから「好き」と言う

 

「好き」がめんどくさい。「好き」がつらい。

ジャニオタをやっているとそう思うことがままある。好きと思ったものを、好きでいるだけなのに。

 

めんどくささやつらさの原因は、他人との意見の相違であることが多い。

同じ物事を見ても、それを受けて考えることは人それぞれ違う。似ていることはあっても、完全に同じことはなかなかないと思う。たとえば最近のKis-My-Ft2まわりのことで言えば、昨晩放送の『逃走中』に出演した宮田さんのやや安定志向すぎる振る舞いに対する評価もそうだったし、『プレバト』の横尾さんと千賀さんの順位を知った時の横尾担の受け止め方も様々だったように思う。

でもそれは当たり前のことで、皆なんとなくは知っているはずなのだ。それなのに他人との違いを突き付けられてはじめて、悲しみを覚えている自分の存在に気付くことがある。

それは無意識のうちに、他人が自分と同じ考えの持ち主であることを期待してしまっているからだと思う。理解や共感を得られたという実感が欲しい、仲間と出会えた喜びを味わいたい、味方はひとりでも多い方が嬉しい。そういった欲求が底の方で静かに流れ続けているから。

 

ただ「好き」でいるだけでおもしろく思えないことがこの世に存在するのに、何故それでも「好き」を表明してしまうのか、「好き」について語ってしまうのか。考え続けても答えの出なさそうな問いだと分かってはいても、その解を欲している自分がいた。

そんな中、最果タヒ著『もぐ∞(もぐのむげんだいじょう)』に書かれていた一節と出会った。

誰かと、自分が共有できることなんて本当に少なくて、むしろたぶんほとんどなくて、だから共有とか共感なんて期待しちゃいけないのだけれど、じゃあ、共感されなくても、たとえ否定されたとしても、それでもいいと思える気持ち、そんな場所に晒せる感情なんて「好き」ぐらいだということも、わかってしまった。好きなものを話すことは自分を語ることにはならないのだけれど、でもそれぐらいしか、他人に晒せることってないのだ。好きという気持ちになら、何を言われても、「まあそれはきみの意見だから」と思える気がしていた(現実は違うかもしれない)。

―『グラタンへの愚鈍な好意』より

 

この文章を読んで、仮に自分だけのものだと知ってしまってもどうにかなりそうな感情、それが「好き」なんだと思った。

「好き」は強力な感情だ。強いから、ちょっとやそっとのことじゃ折れないし(折れないせいで時に争いの種にもなる)、誰かと同じじゃなくても別にいいやと諦めがつく。だから外にほっぽり出して外気に当てられても、基本的にはへっちゃらなのだ。

しかし引用最後の(現実は違うかもしれない)に込められているように、日の下に晒されてみたら存外に傷ついてしまうこともあるかもしれない。それでも「好き」を人目に晒したくなってしまうのは、誰かの理解を求める以前の問題として、内に留めておくにはあまりにも強すぎる感情だからかもしれない。自分の中に溜め込んではじけてしまわないうちに、さっさと外に出してしまいたい。その後誰に見つかってどうなるかは二の次。

 

それほどまでに強い気持ちが運よくどこかで誰かのものと交じり、手を取り合うことができたなら、本来わたしがあなたになれない限りわたしたちは絶対に分かり合えないはずなのに、それってとても幸運なことではないでしょうか。

(最後に余談ですが、昨晩の『逃走中』を見たジャニーズwebに登録されている皆さんは、本日更新のKis-My-Ft2連載の宮田さんのページを是非ご覧ください。後輩を素直に褒めるいい先輩です。)

 

 

 

もぐ∞(もぐのむげんだいじょう)

もぐ∞(もぐのむげんだいじょう)