ごねんぶりにどめの

時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

さよなら、プリンス ―『Summer Paradise 2019(Travis Japan公演)』―

 

※ セトリに関するネタバレがあるので避けている方はこの先を読まないでください

 

 

 

8月11日と13日、『Summer Paradise2019』Travis Japan公演に行ってきた。

今年3月の横アリ単独公演ではキスマイの曲が7曲ほどセトリ入りし、トラジャはKis-My-Ft2の曲が多く使う印象があったが、今回も5曲(歌なしの音だけを含めると6曲)使っていた。キスマイファンとしては、ツアーのバックについて素晴らしいパフォーマンスをしてくれる上に、単独ライブで曲も沢山使ってくれるなんてありがたい限りだ。

今回セトリ入りしたうちの1曲に、今年キスマイのライブツアーで披露された宮田さんのソロ曲『僕だけのプリンセス』がある。キスマイの演出は、白馬に乗ったトシヤ王子が姫たち(=ファン)を迎えに来る、というものだったが、これを自担にやられたら幸福の極みだろうなあとツアー開催中に宮田担のプリンセスたちを羨ましく思っていた。

 

しかし今回、なんと、この『僕だけのプリンセス』が如恵留くんのソロ曲として使われたのである。

 

説明が遅れてしまったが、このブログを書いている人間は「DD気質が強いため○○担と自分から積極的に名乗らないようにしているが、トラジャで言うなら如恵留担」と説明できる(少々面倒くさそうな)ジャニオタであり、すなわちキスマイツアーの時に「いいなあ」と羨ましがっていた状況が我が身に起こってしまったのである。

ネタバレを見ずに入った11日の公演は、如恵留くんの声で「ぼーくーだーけのー、プーリーンーセスー」と始まった瞬間、膝から崩れ落ちて隣にいた同行者(ラッキーなことにその人は宮田担かつ今回のセトリを把握していたので自分の反応に対する理解度が高くてありがたかった)にもたれかかるようにしながら「マジですか!うそ、うわー!」とちゃんとした言葉にできないくらい興奮し感激していた。生きてるといいことあるってこういうことなんだと直感した。

 

如恵留くん、いやノエル王子は、白基調のマントをつけて登場した。「元々高貴なオーラが感じられるのに、マントをつけるなんてあまりにも解釈一致が過ぎるだろう……」と思わず頭を抱えた。公演後に一緒に行った人と話した時も、「別に如恵留くんにマントをつけてほしいと思っていなかったが、マントをつけるとなるほどという感じがした」という話になったので、きっとあのマントは如恵留くんが人生で一度は身につけなければならないアイテムだったのだと思う。

はじめノエル王子はバクステに登場し、歩いてメインステージに向かう。バクステで歌っている時には途中で松松の2人が登場し、ノエル王子に向かって片膝をついて敬うような振りがある。これを見て、「トシヤ王子は白馬で姫のいる目的地にまっしぐらに駆けていくけど、ノエル王子は白馬でゆったり移動している道中で道で困ってる人を助けながら進むんだろうなあ」と、同じ曲を歌った2人の王子の違いについて考察(妄想)していた。

メインステージに上がるころには松松以外のメンバーも揃っていて、ノエル王子をセンターにして7人で踊るのだが、この振りはキスマイのライブツアーと同じだったので、ちょっと前までトシヤ王子の後ろで歌っていたのに、と不思議な気分になった。

終盤、曲が転調するところでノエル王子はマントをバサッと脱ぎ捨てる。その瞬間ノエル王子は、いつも見ている通りの美しく踊るトラジャの如恵留くんに変わる。「“トラジャの如恵留くん”は世を忍ぶ仮の姿で、その実平穏な日常を送るために正体を隠している王族の家系の末裔なのでは……?」と解釈してもおかしくない演出だと思う。

「僕は君のプリンスさ」という歌詞でこの曲は終わるのだが、この部分で如恵留くんは手話と思われる動きをする(厳密にはここ以外でもしているがここが一番その動きが目立つ)。それまでポップな曲調で進みそれに合わせた軽快な振りや仕草をしてきたが、最後に音の流れが一旦止まり、アカペラで歌っているような優しく語り掛ける歌い方になる。手話の動きがもたらすゆったりとした空気の中で、改めてステージに立つ如恵留くんを見ると、ノエル王子と如恵留くんの境界がふわっと溶け合うような、不思議な感覚を覚えた。当然頭では分かっているのに、「そうか、さっきマントを翻していたノエル王子は如恵留くんだったのか」と初めて気づいたような、そんな感覚。

 

わたしのサマパラ2019は今日でオーラスを迎えた。ノエル王子に会いたくてももう会えないと思うと切なくなる。胸がきゅっと苦しい。すっと手を差し出せば白い小鳥がその手に留まりそうな高貴な姿は、いっそ夏が見せた幻だったと思いこんでしまった方が幸せなのかもしれない。

 

 

ジャニーズWESTと勝手に仲たがいした、そして勝手に和解した

 

2015年の秋ごろから重岡担を名乗ってジャニーズWESTに力を入れて応援していた。

しかし2017年の1月、天の巡りあわせで横尾さんにビビッと来てしまい、そのまま徐々にKis-My-Ft2に興味を持ち始め、それと入れ替わるように1年くらいかけて自分の中のジャニーズWESTの波は徐々に引いていった。その辺の記録は度々このブログにもまとめていた。

 

 それだけを話すと「より好きなグループができたから推しグループを乗り換えた」という風に聞こえるが、正直、当時のグループの売り方にあまり好感を持てていなかったというのもフェードアウトした理由としてある。前にも似たような曲あったじゃん、とか、直球でキメキメのパフォーマンスもできるのに披露する機会の多いシングル曲でおもしろおかしい方向の曲を出すんだろう、とか。本人たちにというより売り方の方向性に不満を持っていた。

そんな経緯があり、掛け持ちのような期間を経てKis-My-Ft2を本格的に応援するようになってからは、ジャニーズWESTを懐かしんで見ることすら出来なくなり意識的に距離を置いた。かつて応援していたはずなのに、その当人たちを見ることで自身の不満がより浮き彫りになることがつらかった。しかも彼らのせいではないのに。

 

そんなスタンスが1年弱ほど続いていた昨年の冬頃、多くのジャニーズグループが出演する長時間の音楽番組を見ていた時、ジャニーズWESTも出演していたので流し見程度に見た。確か『スタートダッシュ!』を歌っていた記憶がある。すると自分が思っていたよりもネガティブな感情が起きず、むしろ「今までも元気で明るい曲は歌ってきたけど、ちょっと路線が変わって少年漫画っぽい応援ソングでいいな」とポジティブな感想を持った。

その辺りを皮切りに、積極的に出演情報をチェックすることはしなかったが、出ていたら見る、くらいのスタンスになった。「なった」というより「戻った」という方が適切かもしれない。

今年に入ってからは、たまたまコンビニで流れていた『ホメチギリスト』が耳に残ってサビが忘れられなくなったり、節約ロックで久しぶりに重岡くんの演技を見ていいキャラの役もらったなあと思いながら毎回楽しみに見たりしていた。自分で遠ざけたものに、徐々に自分から歩み寄っていった。

 

そんな折、先週発売となった今年のツアー映像を友だちに見せてもらえることになった。これがきっかけでまた距離感が良い方向に変わればいいな、と思いつつその日をわくわくしながら待っていた。

彼らのコンサートを見るのは2017年ツアーのなうぇすとぶりだったが、まず構成が個人的にすごく好きだった。通しで見ていても集中力が途切れない、流れのいいコンサートだった。あと、歌唱力のベースラインが高いかつ高音と低音の担い手がそれぞれいるお陰で、歌っていてハモることが多いのも魅力的だと思った。

そしてかつて重岡担を名乗っていたわけだが、やっぱりふとした瞬間にグッとくるのは重岡くんの言動だった。今回のコンサート映像で好きだった場面が2つあった。1つは『間違っちゃいない』、もう1つはアンコール。

『間違っちゃいない』はあらかじめCD音源を聴いてその作詞が重岡くんであることを知った時点で、「もし今も重岡担だったらこの曲で何かしらのターニングポイントを迎えていた気がする」と薄々悟っていたが、コンサート映像を見て「こりゃあガチの重岡担だったら初見の時に倒れてたな」と確信した。自分のことを好きな人ばかりが集まるコンサート会場という場所で、自分の弱い部分を晒す覚悟を決めた重岡くん格好良すぎる、と思った。普段のキャラがキャラなだけになおさら。歌う前に「自分が弱っていた時に書いた歌」と言いきっていたのは、本当に格好良かった。でも弱った時に「間違っちゃいない」と言い聞かせられるのは、おそらく自分に積み重ねてきた自信がないと出来ないことで、それを踏まえた上で再びあの歌と向き合うと、重岡くんの弱さだけでなく強さも感じられる気がして、とんでもない曲を書いたなと思った。

アンコールは何が好きだったかというと、淳太くんの腕をおもむろに掴んでひたすら外周を走り回ってそのまま花道も駆け抜けていた重岡くんが、すごくすごく好きだった。他のメンバーがゆっくり歩きながら客席に向かって手を振ったりファンサしたりしているのに、重岡くんはわき目もふらず前を向いてにこにこ笑いながら、ひいひい言ってる淳太くんを連れ回していた。もしかしたらそれを見て「ファンサしてよー」ってぷりぷりするファンもいたかもしれないけど、わたしは少々厄介でひねくれたファンだから「アイドルはファンのこと最低限考えてほしい(法を犯さないとかそういうレベル)けどそんなに気遣わなくていいから勝手に走っていってちょうだいよ」と思っていて、その欲求があのソロ運動会状態の重岡くんによってひったひたに満たされた。最高だった。

ちなみに勝手なイメージだけど重岡担って機会ごとにポエマーになりがちな印象があって(わるい意味ではない)、そして実際今ここで自分もそうなっているんだけど、それは本人が語らないから見る側がなんとかして彼を語ろうとしてしまうのだと思う。見た人が口を開かずにはいられないほど大きなエネルギーを持ったアイドル、それが重岡くん。

 

当初期待していた「ちょっとでも距離感が変わればいいな」どころか、こうしてブログの記事を1つ書いてしまうくらいには多大なる影響を受けてしまって、正直ちょっぴり恥ずかしい。でも、永遠に仲たがいしたままで終わらなくてよかったと思う。好きになったこと、好きでいた時間。彼らの関わった自分の過去は、何も間違っていなかったのだ。

 

 

 

 

 

ナゴヤドームの天井席、星になってきみを抱きしめた

 

およそ1週間前の6月15日、わたしは普段生活する関東を離れ名古屋にいた。Kis-My-Ft2のドームツアーの名古屋公演に行くためだ。

その日は空の具合が悪かった。ずっとどんよりとしていた曇り空から、開場時間くらいに突然どしゃぶりの雨が降り出して、全身をじっとり濡らされた状態で会場に到着した。履いていたスニーカーの中に水がしみ込んで気持ち悪かった。

 

ナゴヤドームの2ゲートでデジタルチケットのQRコードを読み取って出てきた用紙には「5階」と書かれていた。これまで全国各地のドームに足を運んできたが、2階か3階くらいまでしか階についての表記を見たことがなかったので、「5……5?」と目を丸くした。

ともあれチケットの表記に従い席を探すと、そこは『天井席』だった。わたしは会場で最も高い位置にある席を「ご用意」されたのであった。当然ながら席について後ろを振り返っても壁しかない。一方下を見れば人、人、人。その先にこれから主役が立つステージがあった。

「ここなら演者から視認されることはまずないだろうし、逆にこちらも誰が誰なのか一目でぱっと判別できない、銀テープも飛んでこない。好きなようにペンライトを振って、必要時はガッツリ双眼鏡を覗かせてもらおう、レーザーが綺麗に見えるだろうなあ、ふふ」

席が分かった瞬間、コンサートに対するいくつかの期待をばっさり刈り取られ、開演前から気分はすっかり吹っ切れていた。

「わたしは名古屋に何をしに来た?」「コンサートを『楽しみに』来たんだよ」

心の中でそんなやり取りが交わされていた。むしろいつもと違う高揚感すらあった。

 

そんな心もちで始まったコンサート。シンプルに、気持ちがよかった。「コンサートって楽しい、楽しいなあ!」と心の底から思った。

後ろを気にせずペンライトを半ば突き上げるようにしながら振ること。緑や紫の素早い光線の動きをじっと見つめてうっとりすること。一緒に踊ることのできる振りの曲を全力で踊ってみせること。何なら主役ではなくジュニアの子たちの振りを真似してしまうこと。

周囲に迷惑をかけないようにしつつも、後ろに誰もいない、というだけである種の開放感があった。

 

メンバーの立ち位置に合わせて綺麗に分かれる7色のペンライトを、最も眺めのよい場所から見られたことに感謝した。壮観な景色だった。たとえ頭で美しいことを知っていても、何度でも美しいと思ってしまう光景だと思う。

瞬間、ドーム内のてっぺんから会場全体を俯瞰した画がふと浮かんだ。メインステージを除いてアーチをかたどる7色の海。そのはじっこを何倍もズームしたところにぽつんと自分がいる。自分がこの会場をつくるパーツとして動いている感覚が、ざあっと波のように押し寄せてきた。

「今この瞬間、わたしはドームの一部なんだ」

幸福な空間の構成員として機能している自分が、どこか誇らしく思えた。

 

公演が終わり会場を出る時も、残念ながら来た時と同じように雨が降っていた。風も強く、傘を差してもほとんど役に立たないような荒れ模様だった。少しはよそ者に親切にしてくれたっていいじゃないか、とこっそり悪態をついて駅までの道を急いだ。

それでも気分がよかった。コンサートの後って、こんな感じだったかな。風に持っていかれないように傘を握りしめながら心の中で自身に問いかける。興奮しすぎて何から喋ればいいか分からなくて語彙力喪失、みたいな感じではなく、羽が生えて少し身軽になったような、終演後にあまり感じた覚えのないふわっとした感覚に包まれていた。

 

担当が何をしているのか常にこの目で追いかけたい。銀テープを取って帰りたい。近くに来てこっちを見てほしい。話したことを聞き逃したくない。

コンサートに臨むにあたり、自分も含めそこに集まる人たちはきっと様々なものを求めて会場へ向かう。欲は自然発生的なものなので、それを抱えることは悪いことでも何でもない。そして「好き」は身勝手な欲をごちゃまぜにしたものだから、実際にただ「楽しい」とだけ思うことは、好意の対象を目の前にするとかなり難しいと思う。

それでも確かにあの日、ナゴヤドームの天井席で、まっさらな「楽しい」と対面して抱きしめることができた気がする。その事実を、羽毛のような幸福を、わたしはこの先何度でも思い返したい。