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時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

「神」と「裁き」の話―映画『羊の木』―(※ネタバレ有)

 

 

 2018年2月3日。公開初日、最寄り上映館のいちばん早い回で『羊の木』を見てきた。

予告時点で頭に入っていた情報としては、「元受刑者の男女6人がある街にやってくる」「主演の錦戸亮演じる月末一(つきすえはじめ)はそれらの人々を迎え入れる市役所職員」程度のもので、その後の展開がどうなるのかについてはさっぱりわからなかった。それなら何も知らないままで見ようと、ネタバレが出回らない公開初日に映画館へ足を運んだ。

そして1週間が経った。しかし未だに、これだ!というすっきりした結論が出ない。というか、『羊の木』がそういう映画なのである。錦戸さんが映画についてのインタビューを受けた記事などで「グレー」という言葉を度々目にしたが、この映画は様々なグレーゾーンから構成された映画なのだと思う。

この映画のキーワードといくつかの単語がキーワードとして鑑賞後に頭に浮かんだが、個人的に最も語りたいと思った言葉、「神」「裁き」について書こうと思う。

 

「神」

『羊の木』作中にはのろろ様という土地の守護神が登場し、気味の悪い存在感を醸し出している。切り立つ崖の上には巨大なのろろ様の像がそびえ立っており、波立つ海を見下ろしている。

のろろ様の像はじっと海を見下ろすのみだが、この作品において神のような佇まいで存在する人間がいた。松田龍平演じる宮腰一郎(みやこしいちろう)である。

最初に月末が元受刑者6名をそれぞれ迎えるシーン。6人の中で最後に登場するのが宮腰であり、6人のうち最も長い尺を使って月末との出会いの場面が描かれている。登場シーンだけを見ると、宮腰は若干不思議な空気を漂わせながらも、元受刑者6人の中では月末がいちばんまともに会話のできそうな人間として登場している。

宮腰は魚深市に来てからすぐに仕事もそつなくこなし、不満もなさそうな様子で、至極人間らしい生活を再開させている。月末のバンド練習の場に偶然遭遇したことがきっかけでエレキギターという新たな趣味に出会い、さらには木村文乃演じる石田文(いしだあや)との交際もひっそりとスタートさせる。

そんな宮腰が人間離れした神のような気配をまとい始めたのは、のろろ祭りで元受刑者6人が、幸か不幸か一堂に会してしまった時。もっと言えば、宴会で宮腰がある行動を取った時からだ。

この場面は、出会って間もない月末に自ら進んで語った、宮腰が受刑者となった理由をどこか彷彿とさせる。それまで宮腰が奥に押し込めていた暴力性が顔を覗かせてきたと単純に考えることもできるが、全編通して見た後に改めて考えてみると、あの辺りから宮腰は人間性と引き換えに神としての役割を請け負ったのだと思った。

神として宮腰が果たさなければいけない役割とは何か。それは、魚深市に災いをもたらすであろう可能性を排除することである。

のろろ祭りが終わってから、新聞記事を頼りに宮腰を探す男の登場や、北村一輝演じる杉山勝志(すぎやまかつし)の宮腰への接触など、宮腰のまわりは徐々に騒がしくなっていく。魚深市という刺激的な要素の一切ない港町にとって、これらの賑わいは「異常」であった。

そして宮腰はそれらを排してゆく。かつては邪悪な化け物だったという魚深市の守護神が、ひょっとすると宮腰の肉体を借りていたのかもしれない。全体としてグレーの空気を纏う映画の中では、異質に思える潔さだった。

「裁き」

しかし最後の最後で、宮腰は裁きを下す側から受ける側に回る。岬に足を運んだ宮腰は、自ら“生け贄”の一人となる。そして宮腰が果たしてきた神としての役割は、宮腰の手元を離れ、暗い海を見下ろすのろろ様の像にいつの間にか託されていた。あの場面で宮腰の頭の中に、月末から聞いた祭りの夜の生け贄の話が浮かんでいたことは間違いないだろう。

では、宮腰は生きたかったのか、それとも死にたかったのか。個人的にはどちらでもよかったのだと思っている。実際には行われていない生け贄の言い伝えが真実かどうかについての興味を発散させるのに、今がちょうどいい機会だとでも思ったんじゃないだろうか。

ただしその相手として、宮腰を「友達」と呼ぶ月末を選ぶということは、宮腰にとって非常に重要なことだったと思う。

宮腰が、月末が自分に対して取ったある行動について、市役所職員としての行動なのか友だちとしての行動なのかを問う場面がある。月末はそこで「友達として」と答える。だから宮腰は「自分を友達と呼んだのなら、自分の関心事に付き合ってくれよ」とでも言うかのように、月末を強引に引き連れたのだと思う。実際、月末にとって宮腰が「友達」かどうかは文に対する感情も相まってグレー中のグレーだったと思うが、宮腰の中では自分のことを「友達」と読んだ月末は全くグレーな存在ではなかったのである。

ラストについては、まさに「裁き」という言葉がぴったりのシーンで、映画館で息を飲んだ。正直、場面が進むにつれて薄々「こうなるのかな」と予想はしてしまえるのだが、潔くて美しさすら覚える恐怖が驚くほど軽くサクッと胸に刺さる。普段全く映画を見ない人間なのだが(途中で止められないことが記録したがりの性質に合わないと思っている)、こういう一瞬を生み出せることが映画の良さなんだと思った。

衝撃的なシーンなのに、不思議と尾を引かない。というより、見てすぐの時には「幻か何かだったのでは?」と思うくらい一瞬の出来事だが、エンドロールが海に吸い込まれていくあたりから同じ場面がずっと再生される謎の呪いにかかった。そして今も呪いは解けていない。「神は確かに存在するのである」と無言の圧力をかけられたかのようだ。

 

 

他にもこの映画を通じて「受容」「再生」などをキーワードとして語りたいと思ったのだが、衝撃的な宮腰の存在感を受け、まずは上記の内容を自分なりにまとめあげようと思ったので書き連ねた次第である。

『羊の木』は誰にでも「見てね!」と気軽に言える映画ではない。「苦手な人は苦手だろうな……でも錦戸さんがこんな素晴らしい共演者と素晴らしい作品に出られたことは知ってほしい……グレーだグレーだと言いながら話の流れ自体はシンプルだけど見た人が何を感じるかはこちらに委ねられるから色んな人の感想を知りたい気持ちもある……うーん……」となって誰にも勧められず終わる。

まあ、せっかく錦戸さんが1年以上前から宣伝していた映画だし、是非多くの人の目に触れてほしい。見た人間全員が、分かるようで分かり切ることのないグレーを口に含み続ける地獄を味わってほしい。わたしはここで2500字ちょっとの文章を書いたのに、まだ地獄を漂っています。

 

 

 

余談:なんと『羊の木』ツイッターキャンペーンに当選してしまいました。付箋ですが使わず大事にします。

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