ごねんぶりにどめの

時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

担当を掛け持ちすることについて悩んでいるあなたへ

 

昨年、自分が「担当の掛け持ち」について割と真剣に悩んでいたことをふと思い出した。

当時ジャニーズWESTの重岡くんの担当を名乗っていたにも関わらず、突然火が付いたようにKis-My-Ft2の横尾さんに興味を持ち始め、担当って何?わたしの担当は誰?と自問自答する日々を送り、節目節目にブログで気持ちを発散していた。

 

しかし今となってはまるで別人のように、デビュー組だろうがジュニアだろうが少しでも興味を持つとほいほい手を出してキャーキャー騒ぐようになった。6月のKis-My-Ft2のコンサートでTravis Japanの川島如恵留くんにいきなりハマり始めたのがいい例である。

それと同時期くらいに、いっそ担当という概念を持たないほうが楽しいのかもしれない、という自論が芽生えた。1番を決めてしまうから他のものを2番以下にしなければならないんだ、それなら1番なんていらないじゃない、担当なんて宣言しなくてもいいじゃない、と考えるようになった。

 

そのようなことを考えていた折、昔読んだ一冊の本を思い出した。平野啓一郎著『私とは何か―「個人」から「分人」へ』という新書である。

ざっくり言うとこの本では、人間を、分けることの出来ないひとつの「個人」ではなく、分けることの可能な「分人」として考えよう、という話をしている。別の言い方をすると「オモテの顔/ウラの顔」「本当の自分/ウソの自分」というモデルを廃し、すべて「本当の自分」であるという見方をしようという考えを提示している。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p7

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは必ずしも同じではない。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p7

 

これを掛け持ちの話に当てはめてみる。

まず一人の人間を「個人」として捉えると、「Aくんを好きなわたし、Aくん担当のわたしが本当の自分。最近Bくんのことが気になっているけど、本当に好きなのはAくんだから、Bくんを好きな自分は本当の自分じゃない」となる。つまり「Aくんを好きな個人」として存在していることになる。

一方「分人」という概念を導入すると、「Aくんが好きだけど、最近Bくんが気になってきた。Aくんを好きな自分とBくんを好きな自分が同時に自分の中に存在している」となる。こちらは「Aくんを好きな分人と、Bくんが気になってきた分人が、共存している個体」ということになる。

前者は、過去の自分のように、自身の中での「わたしは一体誰が好きなのか」という葛藤が生じる予感を匂わせる思考回路だが、後者は分人同士がぶつかり合うことなくフラットな関係が成立している。

つまり特定の人物の担当を名乗るということは、そうではない自分をまるでニセモノのように扱うことにつながりかねない。しかし、Aくんを好きな自分もBくんを好きな自分も自分の中の「分人」として等しく扱うことで、好きな人が増えた自分をすんなり受け入れやすくなる気がする。

 

誰かを愛することは、誰かを愛している自分を愛することでもある。Aくんを好きな自分のこともBくんを好きな自分のことも等しく好きならば、それでいいのだと思う。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。(中略)他者を経由した自己肯定の状態である。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p136

 

実際に自身を顧みて思うのは、新しく誰かを好きになった自分に出会うことは、シンプルに楽しい。Aくんを好きな自分とは違う、Bくんを好きな自分に向かって、「お前そんなヤツだったんだ!知らなかったよ!」と思わず声をかけたくなる。同じ人間の中で起きている出来事のはずなのに、まるで親しい他人がいきなり出来たような感覚に陥る。

おそらく大抵の人は、人に頼まれたから誰かを好きになっているわけじゃない。誰かを好きになるのは、すべて自分の選択の結果だ。だから、好き勝手にいろんなものを愛して、その度に新しい自分と出会って、その出会いを純粋に楽しめばいいと思う。他人を愛することは、未知の自分に出会える有効的手段なのだから。

 

 

この世界にどれだけ存在するか分からないが、もし過去の自分のように、掛け持ちについて悩む人がいれば、複数のものを愛したくなった自分を受容しやすくなる思想として、頭の片隅に入れてもらえたら嬉しい。わたしは今、たくさんのものを好きになることが、只々楽しい。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)