ごねんぶりにどめの

時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

舞台『コインロッカー・ベイビーズ』が良すぎたので原作を読んで考察してみた

 

7月24日、A.B.C-Zの橋本くんと河合さんが主演を務める舞台『コインロッカー・ベイビーズ』を観劇した。

 

 

2016年に初演となった舞台の再演だったが、初演再演含めこの回がわたしにとって最初で最後の『コインロッカー・ベイビーズ』となった(再再演があればまた話は違ってくるが)。約2時間というけして長くはない公演時間だったが、密度の高い舞台だった。それゆえに、公演時間内では解釈が追い付かない箇所もあり、終演後のもやもや感を払拭すべく、原作本を読んだ上で本作品についての考察を試みた。

 

 

原作ファンの方が書いた上記のブログも、原作本に手を出す後押しとなった。原作未読時点での舞台の解釈に大変参考になったので、コイベビへの理解を深めたい方にはおすすめしたい(当記事に上記ブログと似た記載が見られることもあると思いますが、原作を読んだ上で改めて強く思ったのだと考えていただければ幸いです)。

主に原作について触れていきながら、舞台を見た際の疑問を解消していく形で考察を進めたいと思う。

 

※ 舞台の内容や、舞台と異なる原作の展開のネタバレが多々あるため、これ以降の文章は自己責任で読んでいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

Q. なぜ精神科医が突然登場してきたのか?

A. ハシとキクに自閉的な傾向が見られ始めたから。

 

まず、舞台では細かく演じられていなかったが、ハシとキクの関係性を知る上で重要なのが幼少期のエピソードだと、原作を読んで感じた。ハシとキクがどのようにして強い関係性を築きあげる過程が分かるし、舞台ではさくっと出てきた部分の前後の文脈も分かる。例えば、わたしは舞台の冒頭で精神科医が登場した理由が観劇中に理解できていなかったのだが、原作を読んですんなり理解することができた。

 

ハシ(溝内橋男)とキク(関口菊之)は共にコインロッカーに捨てられた子供だったが、初めて出会ったのは乳児院に収容されてからしばらく経ってからのことだった。 

この頃(=走ることのできる年齢/キクが養子としてもらわれずに乳児院に残っていた頃)キクはまだ自分がコインロッカーで生まれたことを知らされていなかった。それを教えたのはハシという子供だ。溝内橋男も売れ残りの仲間だった。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p9

 

その後キクは、病弱なハシを助ける存在となり、二人で一人の人間を構成するかのような関係性を構築する。

キクはハシがいじめられたりすると必ず助けた。(中略)キクにもハシが必要だったのだ。キクとハシは肉体と病気の関係だった。肉体は解決不可能な危機に見舞われた時病気の中に退避する。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p11

 

しかしその後、病弱さ故にキクと遊ぶことができなくなったハシは、あらゆる物を規則正しく並べ、その変更を許さない奇妙な飯事(ままごと)に興じるようになる。また、自分という“肉体”から独立したハシを見て、キクも乳児院を抜け出し遠くへ行きたがるようになる。

彼らが何らかの病気に罹患していると考えた乳児院のシスター達は、二人を精神医へ連れていく。精神医には一種の自閉症だと言われる。

自閉症には、“豊かな自閉”と“貧しい自閉”の二種類があって、外界と切り離された患者の精神状況が空っぽの場合、“貧しい”、豊かな精神世界がある場合“豊かな自閉”とこう呼ぶのです。この溝内橋男はもちろん豊かな自閉です、このように想像力に満ちた作品を造るのですから。次に、関口菊之の場合ですが、この子は静止恐怖を訴えて急激な空間移動を欲しているにもかかわらず、それは外界への積極的な関与とはなっていません、むしろそれは急激な運動によって自分の中へ入っていく試みだと思います、何者かが自分のすぐ傍で轟音と共に飛び立とうとしているという彼の強迫観念は、実は、自分を恐れているのです。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p16-17

 

個人的な感想だが、舞台では出てこなかった(気がする)「自閉」というキーワードを聞いて、ハシとキクの異質さに「ああ、なるほど」と合点がいった。以前読んだ自閉症関連の書籍に、「自閉症の人は、一見外からは理解できないような言動も本人にとっては整合性のとれたルールの下で行っている」といった内容が書かれていた気がする(当時の読書の記録がなく記憶に頼った話をしているので間違った解釈だったらご指摘お願いします)。二人だけしかいない世界を走り回っているようなハシとキクの行動が、その解釈をあてがうことで腑に落ちた感じがした。

 

 

Q. ハシはなぜ心臓の音を希求していたのか?

A. 弱い自分が変わるきっかけとなった音だったから。

 

舞台で事あるごとに「音が」「音が」と言っていたので重要度の高さは伝わっていたのだが、「あれ、どうしてあんなに音を聞きたがっていたんだっけ?」と、見終わってから改めて考えてみると、きちんと説明できない自分がいた。また、原作を読むことで、能動的に音を聞きたがっていたのはハシで、キクはそれほど音に対する関心がないのだ、ということをきちんと認識できた。

 

里親の和代に連れて行ってもらったデパートで催眠術にかかってから、ハシは「音」を捜し始めるようになる。

キク、僕はね、別に狂ったわけじゃないんだよ、ある物を捜してるんだ、憶えてるかい?病院に行って、映画を見ただろう?(中略)あれね、音なんだ、僕達ね、あそこで音を聞いてたんだよ、その音を僕は催眠術の中でもう一度はっきり聞いたんだ、驚いたね、キク、きれいな音だよ、死にたくなるようなね、きれいな、それでね、僕、テレビの中からその音を捜してるの、全部の音を聞こうとしてるんだよ、(中略)この世の中のね、ね、音を全部憶えたいんだ、あの、僕達が、病院で聞かされた音の正体がわかれば、僕、学校に行くよ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p59-60

ハシはテレビの音をほとんど暗記したそうだ。でも、目的の音は探せなかったらしい。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p60

ハシは三ヵ月間音ばかりを聞いたから、聴覚が鋭くなっていた。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p66

 

乳児院で“奇妙な飯事”に興じていた時のように、あらゆる音を延々と聞き続けたハシ(テレビの音を暗記するまで聞きこむというのも、やはり自閉的な行為だと思う)。

彼をそうまでさせた理由は何だったのか。ハシは、催眠術にかかり失踪した日を境に“自分の欲求”と出会い、“何をしたいかわかった”と話す。  

記憶を丹念に辿るとある出来事を境にして二種類の自分がいたことに気付いた。その事件が起きる以前、自分はずっと被害者だった。役割や使命に気付いていなかったために能力は眠ったままで他の関係ない価値の基準に従い縛られて、弱虫と呼ばれていた。鉄棒ができない、ただそれだけの理由だ。それだけでみんなは不当に僕を怯えさせた、僕が自分で自分を嫌いになるように仕向けた、あの出来事以来だ、僕が自分に潜んでいた欲求に目覚めたのは、何をしたいかわかったのは、僕が音を捜し始めたのは、あの日僕の性器を犬のように舐めていた大男を煉瓦で殴った時からだ。
(中略)そんなことはない、案外大事なのは僕が煉瓦であの男の尖った頭を叩き潰したことだ、時には、僕を忠実に愛している者の頭を叩き割ることが必要だ、何のために? 自分の欲求と出会うためにだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p246-249

本当は、歌手になるのではなくて歌手として生まれてきたかった、歌手になる前の僕は死んでいた、笑いたくないのに言われるままに笑う焦点のぼやけた写真の中の人物だった、歌手になる前の僕をずっと過去に遡っていくと怯えて泣いている裸の赤ん坊がいるだろう、箱の中で薬を振り掛けられて仮死状態のまま見捨てられていた赤ん坊だ、これまでずっとそうだった、僕は歌手になって初めてコインロッカーの外へ出ることができたんだ、仮死状態の自分は嫌いだ、仮死状態で住んでいた場所はみんな爆破して消してしまいたい。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p224

 

ハシは過去の自分を「被害者」「仮死状態」と表現しており、“歌手になって初めてコインロッカーの外へ出ることができた”と話す。 つまり、ハシは「音」を聞いたことがきっかけで、弱い自分を捨て生まれ変わることができたと考えている。

このことから、ハシが大男を煉瓦で殴って手に入れたと考えている「欲求」、言い換えると「ハシ自身が当時潜在的に自分が求めており、実際に手に入れることができたと考えているもの」は、「強い自分」なのだと考えた。

 

では、弱虫ではなくなったはずのハシは、「音」を聞いて今度は何を手に入れたがっているのか。 

僕ね、恐いんだ、自分が誰なのかわからなくなる時がある、鏡を見ても誰だろうと思ってしまう、体が二つに裂けて別々に動いてる感じなんだ、(中略)僕はね、体が二つに割れて頭がいつも痛くてわけのわかんないものに怯えてるだろう? だからあの音を聞きたいんだ、どうしたら聞けるのか考えていたら、蠅が教えてくれた。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p447-448

 

歌手になり有名になったハシは、精神を病み、自己が分裂したような感覚に陥り始める。鏡に映る自分が誰だか分からず、見えないものに怯えながら日々を過ごす。

ハシは、「音」と再び出会うことによって、自己を統合させ完全体となった「強い自分」を手に入れようとしていたのではないか、と考えた。つまりハシは「音」を、自身を劇的に強くしてくれる魔法のような存在として考えていたと考察した。

 

しかし皮肉なことに、ハシよりも先に「音」の正体に気付いたのは、一緒にその音を聞かされていたキクだった。

キクは既に思い出していた。はっきりと思い出した。(中略)あの音、ハシと一緒にゴムが貼られた部屋で聞かされた音、ハシ、あれは窓の外の雨垂れの音じゃないぞ、ハシの推理は間違っていない、屈折と透過を経て永遠に続くという安心感を与える音、心臓の音だ、あの精神医の部屋で聞いたのは、心臓の音だ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p358

キクは思い出したように突然、ハシ!と叫び面会室に走ろうとした。看守が引き留める。ハシ!あの音は、心臓の音だ、聞こえるかハシ!お前を産んだ女の心臓の音だぞ!キクの声は廊下中に響き、桑山、狂っているのはお前のほうじゃないか、看守がそう言って笑った。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p450

 

一方ハシはというと、ニヴァに包丁の刃を向ける寸前になってようやく「音」の正体に気が付くことになる。 

突然ハシはギクリと身震いして目を開けた。音が聞こえたのだ。自分の体を流れる血の音。腕の血管を移動する血の音。細かな波がある。一定の間隔で波が起こっている。ハシは耳を澄ませた。この音だ、と呟いた。ニヴァを殺すために、やっぱりこの音が聞こえてきた、この音は最大限の勇気を与えてくれる、わかったぞ、心臓の鼓動だ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p495-496

 

上記引用から、自分の聞きたがっていた音が心臓の音と気付いた時すら、ハシは音を「自身を強くしてくれるもの」と考えていることが分かる。しかしニヴァに向けた刃先をその腹部へ突き刺そうとした瞬間、音は止んでしまう。

結局心臓の音は、ハシの考えていたような「人を強くする音」ではなく、むしろ真逆の、幼少期に二人がその音を聞いていた目的通りの「人を鎮める音」だったのだと思う。幼いハシが煉瓦で大男の頭を殴った時も、キクが母親を撃った時も、ハシがニヴァを刺す時も、全て神経が高ぶり人を殺めた(殺めようとしている)時に、心臓の音は聞こえている。ハシは「人を殺せば聞こえる音」と考えていたが、「人を殺すほど危うい精神状態になった場合に聞こえる音」という解釈が正しかったのではないだろうか。

また、ハシがニヴァを刺す時の描写から、自身の心臓の音が興奮のあまり自身の耳に届いている、と解釈することもできるように思う。そのような状態になったら気をつけろ、血液が沸騰するほどの気の高ぶりは身を滅ぼすぞ、というある種の警告音として、自身の内側から鳴り響いていたのかもしれない。

 

舞台には登場しない場面のため余談となるが、母子ともに一命をとりとめたニヴァに面会に来たハシが病室で拘束された場面(舞台ではニヴァは死んでしまっている)に、以下のような描写がある。 

ハシはテレビカメラを覗き込んでいる。レンズの表面に暗い虹が見える。ハシの顔が映っている。口にゴムの球を詰め込まれて泣いている痩せた顔、僕だ、僕の顔だ、とハシは思った。ゴムに潰されている喉の奥でハシは何度も呟いた。レンズに映る歪んだ泣き顔に呼びかけた。どこに行ってたんだ、ずいぶん捜したんだよ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p538

 

求めていた強い自分とは真逆の、身体を拘束され自由を奪われた不自由な状態になっているにも関わらず、ハシはレンズに映った自分を自分だと認識できるようになっている。つまり心臓の音を聞いた後、ハシは自分の望んでいたように、自己の分裂した感覚を消失させることには成功しているのである。なんとも皮肉めいた、無情なワンシーンだな、と感じた。

 

 

Q. キクは何故あらゆるものを破壊したがったのか?

A. 世界の閉塞感が、自分の生まれたコインロッカーのイメージに重なったから。

 

舞台では、刑務所でキクが壁にぶつかっていくシーンが最もその理由を象徴している。その場面にあたる原作の引用が以下の文章である。

会ったこともないような奴らがよってたかって俺達に勝手なことを言う、そうだ何一つ変わっていない、俺達がコインロッカーで叫び声をあげた時から何も変わってはいない、巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに俺達は住んでる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが俺達を蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、壁は上手い具合に隠されている、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている、方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p449-450

 

 この部分の描写を見ると、キクは刑務所に入ってからもなお、「ハシと二人で住み続けているコインロッカー」から解放されるためにあらゆるものを破壊したいと考えていると受け取ることができる。

一方、破壊の手段としてキクが選ぶのは、神経兵器「ダチュラ」。ダチュラとは元々小さい頃に島で出会った男ガゼルに聞いたおまじないだったが、実はその正体が恐ろしい兵器の名だったのである。

「親を殺したいと思うだろ? 産んだやつをよ」
「誰だかわかんないんだよ」
「片っぱしから殺していけばいつかそいつにあたるよ」
「関係のない人はかわいそうじゃないか」
「お前には権利があるよ、人を片っぱしからぶっ殺す権利がある、おまじないを教えてやるよ」
「おまじない? 何の?」
「人を片っぱしから殺したくなったらこのおまじないを唱えるんだ、効くよ、いいか覚えろよ、ダチュラダチュラだ」
「ラチュラ?」
ダチュラだ」
ダチュラ
「忘れるなよ、きっと役に立つぞ」

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p63

 

原作の説明を読むとダチュラの兵器としての圧倒的な能力がすぐに理解できる。

ダチュラ」を服用するとまず記憶を完全に喪失することから始まり、想像を絶する恍惚に包まれる。(中略)服用者は絶大な快感の中で破壊を開始する。(中略)服用者は、目に入る物はすべて破壊し、生物を殺して続ける。彼は、殺されるまで止めない。殺す以外に彼を制する方法は、ない。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p170

 

舞台と原作のいずれを見ても、ダチュラはガス状の兵器と推察される。すなわち選択性の低い殺人兵器であり、ハシを巻き込む可能性もあれば、自分すら餌食になる可能性がある。自分を支えてきた“おまじない”で破壊行動を遂行したい心理も理解できなくはないが、もっと安全な方法もあったのでは、という疑問もぬぐい切れない。

俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p551 

俺は飛び続ける、ハシは歌い続けるだろう、夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、俺達はすべてあの声を聞いた、空気に触れるまで聞き続けたのは母親の心臓の鼓動だ、一瞬も休みなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つだ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p552

 

その疑問にあえて答えを出すのであれば、キクのハシに対する絶対的な信頼度、という言葉しかわたしには思いつかない。真夏のコインロッカーから生まれた赤ん坊。心臓の音を聞かされた子供たち。生まれながらにして付いた傷が彼らの誇りとなり、生への圧倒的なエネルギーとなる。

単純に、キクの目的が「世界の破壊」でしかないのなら、ハシのことを二の次に考えてもおかしくはないか?と考えもしたが、こればかりは原作を最後まで読んでもはっきりとした自分なりの答えが出せずじまいだった。

 

なお原作では、世界よりももっと照準を絞って「東京」が破壊の対象となっている。

母親を捜しに行くと言って東京に出て行ったハシを、キクは里親の和代に同行して一緒に捜しに行く。しかしハシは見つからないまま、宿泊していたホテルでひっそりと、体調を崩して休んでいた和代は息を引き取ってしまう。和代の死に気が付いたキクは、シーツにくるんだ死体の横でひとり考える。 

閉じ込められている、そう気付いた。ガラスとコンクリートに遮断されたこの部屋、閉じ込められたままだ、いつからか? 生まれてからずっとだ、柔らかなものに俺は密封されている、いつまでか? 赤いシーツを被った硬い人形になるまでだ、(中略)東京がキクに呼びかけている、キクはその声を聞いた、壊してくれ、全てを破壊してくれ、(中略)キクの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現した。夏の記憶だ。十七年前、コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現わし始めた。どんな声に支えられて蘇生したのか、思い出した。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p125-126

 

熱気のこもったホテルの一室は自分が捨てられた真夏のコインロッカーを想起させ、里親が死んだ恐怖と虚しさは怒りに変わる。劣悪な環境のコインロッカーの中で聞こえていた、破壊を期待する声と同じものを、和代が死んだホテルの一室で再びキクは聞いたのである。こうしてキクは、怒りの矛先を東京に向けることとなる。

おそらくこの場面は舞台で演じられなかったと思うが(化粧するハシに向かってキクが「和代が死んだ」と言い放っただけだった気がする)、破壊衝動を広い対象に向けた場面は、原作では刑務所のシーンよりもこちらが先に登場している。

ちなみに舞台と原作では、キクが船を脱走するところからダチュラを手に入れるあたりまでは内容が結構違う。舞台では怒涛のシーンが間髪入れずに続く印象だったが、原作のでは一つ一つの場面の緊迫感が高い上に内容のボリュームもあるため、よりハラハラさせられる。

 

 

余談中の余談「アネモネかわいい!」

ブラックな場面も出てくる中、舞台では山下リオさん演じるアネモネのかわいらしさ、好意の真っ直ぐさにはついつい表情が緩んだ。

 

原作を読んで、舞台で最もきゅんとした上記の会話が舞台オリジナルであったことを知った(仕事を持たないと面会不可と言われてキクとの面会を断られている場面は原作に出てくるが)。しかし、逆に原作にしかない、アネモネの大変健気で可愛らしい行動もあったので、やはり原作を読んで大正解だった、と心の中でひとりガッツポーズをした。その引用を以てこの記事を終わりにしたいと思う。

その夜にアネモネはキクのクリスマスプレゼントを解いたのだった。プレゼントは本でオムレツその全て、というものだった。一八二ページにオムライスの作り方が載っていた。キクはその部分を赤い線で囲んでいた。アネモネは卵を二百個買ってきてオムライスを作り始めた。足りなくなった材料を補充して行く以外はずっと部屋に閉じこもり起きてから寝るまでオムライスを作り続けた。部屋は卵だらけになった。アネモネはベッドを除いて部屋の床の全てを薄焼き卵とケチャップ御飯で埋め、それを眺め回してバカみたいと呟き短い間声を出して笑い、やがて全身が痙攣するまで泣いた。

村上龍コインロッカー・ベイビーズ講談社文庫)』p312

 

「何故オムライス?」「キク本人は?」「なんで泣いてるの?」と何かしらの疑問符が浮かんだ方は、是非原作を読むことをおすすめしたい。個人的に大好きなシーンです。舞台でやられていたら、ときめきすぎて死んでいたに違いない。

 

 

残りの大阪公演と富山公演も、何事もなく成功しますように。素晴らしい作品をありがとうございました。

 

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

 

 

 

 

古参が新規にモヤモヤしている時、新規もまた古参にモヤモヤしている

 

昨晩、古参と新規についてのあるブログを読んだ。

 

 

端から端まで、自分のまとまっていない考えを代筆してくれているような文章だった。救われたような気持ちすら覚えた。

このブログの内容を受けて、素直じゃないひねくれたとあるオタクの話をします。

 

 

新規が感じる「圧」

最近、実際会場に行く行かないに関わらず、コンサート終わりのファンの空気に息苦しさを覚えることが増えていた。

例えばコンサートで、演者の誰かが「いいこと」を言ったとする。すると、会場にいたファンの誰かが、その言葉に感動した旨をツイッター等で報告する。さらに会場にいなかったファンの元にも同じ言葉が届き、感動が増幅される。

その巨大に膨らみ押し寄せてくる多数の感情を含んだ「圧」のようなものに、時たま押しつぶされそうになった。

そこにファンの「回顧」が加わると、余計くるしかった。自分の知らない物語を語られることに疎外感を覚えた。

現在わたしはKis-My-Ft2を主に応援しているオタクだが、キスマイに本格的に興味を持ったのは2017年はじめ頃なので、リアルタイムで追いかけて始めてからはおよそ1年半しか経っていない。それ以前のことは知らないことばかりだ。例えばファンになってすぐの頃、キスマイのファンが「あの夏」「あの夏」と思い出深そうに言っているのを見て、「あの夏っていつやねん!知らんわ!」とツッコミながら心の底では寂しがっていた。だってその思い出、わたしは持ってないから。

自分の所持していない思い出を語られると、負けたような気分になった。ファンはファンでしかなくて、皆対等な存在だと思いたいのに、ただの趣味でやってることに自分で優劣つけて苦しくなって、ばかみたい、と自分自身に思っていた。

 

「圧」の正体

先に引用したブログの中で、“「ジャニオタ」「〇〇くんが好き」というアイデンティティが古参には確立されてしまっている”という言葉が登場するのだが、この頃わたしもまさに同じことを考えていた。他人の感情的な言葉から「圧」を感じる理由がそこにあった。

自分がたびたび感じていた「圧」の正体は、「この人のことをわたしはずっと好きなんです!」というアイデンティティを前面に押し出すような空気感だった。

過去のマイナスからの現在のプラスへの転換、みたいなエピソードが語られるときは余計そうだった。プラスしか知らない新規は、厚みのあるはずの物語の一部しか理解できない。他人がする「マイナスの時は~けど、今はプラスになって~」みたいな話を、ただのいい話として聞けばいいものを、ひねくれたファンである自分は素直に聞けなかった。「楽しいことだけじゃなく苦しいこともあったんです、それを乗り越えてきたんです」と、「不幸売り」されている感覚に近かった。

 

オタクであることはアイデンティティじゃない

これに気付き始めてから、「〇〇さんのファンです」とは言うが「〇〇担です」と名乗ることを控えるようになった。ただ誰かを好きで応援しているだけなのに、胸にその名札をでかでかと掲げて主張しているようで、違和感を覚えてきたのがその理由だ。他人からすればどこが違うの?程度の話だが、自意識の問題なので気になっても軽く流してほしい。

わたしは、オタクであることを誇りに思いたくないし、アイデンティティとして掲げたくもない。恥ずかしいことでもないけど、自慢することでもない。わたしはただ、偶然誰かを好きになってしまっただけの人である。

 

担当を名乗ることはわるいことじゃない

誤解させるような文章を書き連ねてきたが、前述の内容はわたし個人の考えであって、誰かの担当を名乗ることを否定しようとは思わない。担当を明快にしているとまず自己紹介が楽だし、「もっと頑張って応援しよう!」と自分を鼓舞して前向きな気持ちも生まれる。

 

だれもわるくない

何より、アイデンティティによる「圧」を感じるのは受け手側の問題であって、発信者側にはおそらく「新規をマウンティングしてやろう」みたいな悪意はないはずだ。つまり、至極真っ当な結論だが、別に誰もわるくないのだ。新規が古参を意識するのも、逆に古参が新規を意識するのも、当人が勝手に意識しているだけで、相手はただ「好き」に従った行動をとっているだけである。

だれも悪くないのにだれかのせいにすることはできない。

よって、他人を気にするな、他人と比べるな、という月並みな結論が導き出される。これが難しいから苦しむわけだが、こればかりは日々訓練と思ってがんばるしかない。

ただ、闇雲に精神の鍛練だけを続けるのもなかなかつらいものがある。しかし、他人を気にしすぎないようにする仕組みづくりは、自分で考えてすぐ実行に移せるはずだ。その過程で、自分が他人のどのような言動に反応するかが分かっていくと思う。あらゆる情報にすぐ手を伸ばせて、他人の言動が見えやすい今だからこそ、自衛する術もきちんと身につけていかねばならない。

 

 

こんな小難しいことを考えなくても楽しくオタクライフを送れている人はそれでいい。というか、そのような人に対しては本気で羨ましさしかない。

ただ、自分のような鬱屈としたオタクでも、晴れ晴れとした気持ちで誰かを好きでいたい。そのためにはあれこれ戦略を立てて、オタクとして楽しい日々を送れるよう努力を重ねるほかないのである。

古参も新規も関係ない。みんなで幸せになろう。

 

 

 

 

『‪ConneXion‬』の扉、開けてみたくない?

 

突然だが、Kis-My-Ft2内ユニット曲である『ConneXion』について語らせてほしい。

 

『ConneXion』とは?

『ConneXion』とは2018年7月11日発売、Kis-My-Ft2の21枚目のシングルとなる『LOVE』通常版に収録されている、藤ヶ谷さん千賀さん横尾さん3人によるユニット曲である。この曲では3人にそれぞれ役割が課されている。藤ヶ谷さんは作詞(Lylic maker)、千賀さんは振り付け担当(Choreographer)、そして横尾さんはファルセットを歌う人(Falsetter)である。ちなみにFalsetter(ファルセッター)は、藤ヶ谷さんが「どの音域が歌いやすい?」と聞いたところ、「ファルセットが歌いやすい」と返したらしい横尾さんのために作られた造語である。

 

『ConneXion』の歌詞について

まず、作詞を担当した藤ヶ谷さんがどのような詞を書いたのかについて考察してみたいと思う。

まず前提条件として、歌っている本人たちが『ConneXion』は失恋の歌である、と話しており、さらに「ワタシ」という一人称が登場するので、女性目線の失恋ソングとして話を進めていく。

まずはサビ以外の歌詞から、“ワタシ”がどのような人物であるかを読み取ってみたいと思う。

 

1番

◎未練がましい

思い出す あの時から ずっと
忘れるコトとか出来ないから I'm sorry

キミなしでは… You know?

あの頃に戻れたら…

◎自信ありげ

今、誰といるの?
泣かないでね。あの夜に戻してあげるよ…

2番

◎強気

あの言葉はFakeかな?だとしたら I hate you

偽りのI love youならI'll give it to you

◎弱気

ワタシからは言えないの
I miss you, I kiss you その先も…

◎自信ありげ

カラダに正直に おいで

 

このように1番と2番の両方で、プラスの感情とマイナスの感情が交互に登場しており、男(=“キミ”)との別れによって“ワタシ”の精神がいかにかき乱されているかが読み取れる。「ワタシといた最高の夜に戻してあげる」と思いながら、「ワタシからは言えない」と言い、それなのに「カラダはワタシを求めているだろうからおいで」と“キミ”を誘う。

一方で「泣かないでね。」という“キミ”に語るような一文から、相手側も実は納得のいく別れではなかったのかもしれない。

  

“ワタシ”の人物像をざっくり把握したところで、次はサビに論点を移す。『ConneXion』の肝と言っても過言ではない、サビで繰り返される「You've got ConneXion to me」「I can take me touch tonight」について考えたいと思う。まず意訳をし、そこからどのような背景が読み取れるかを考察したい。

 

・「You've got ConneXion to me」

直訳:あなたはわたしとつながっている(現在完了形)
「キミとワタシは今も昔もつながったままなのよ」

・「I can take me touch tonight」

直訳オブ直訳:わたしは今夜わたしをtouchに連れていくことができる(takeを「連れて行く」という意味でとらえた場合)*1
→直訳と意訳の中間:ワタシは今夜自分を触らせることができる
「今夜、ワタシはキミと触れ合うの」

 

二つのフレーズを、わたしは上記のように意訳した(正直「I can take me touch tonight」は訳と解釈に自信がなさすぎるので、ご意見のある方はわたしに連絡ください……)。サビ前で強気と弱気の間を行ったり来たりしていた“ワタシ”は、結局サビに入って強気モードで“キミ”への思いを走らせ始める。

しかし、弱気モードの“ワタシ”も知っている聴き手には、それがどこか虚勢を張っているようにも思えてしまう。ここに存在しない“キミ”に泣きついてるようにも思えるし、逆に“ワタシ”自身に別れてしまった“キミ”との現在進行形のつながりがあるのだと言い聞かせているようにも思える。そう考えた途端、藤ヶ谷さんと千賀さんが歌割りを担当している「Baby」が、ある一人の女の悲痛な胸の内の叫びとして、一気に胸に押し寄せてくる。

 

以上を踏まえて、

  • “ワタシ”と“キミ”の2人は、本当は別れたくはなかったものの、男側のどうにもならない事情によりやむを得ず別れてしまった
  • “ワタシ”は既に別れてしまった“キミ”との関係がどうにもならないことを頭では分かっているが心では納得しきれずにいる

と考察した。正直に言うと、ありがちな悲恋もののストーリーなのかな、という感想を持った。

 

横尾担として語る『ConneXion』の良さ

前述したように、考察してみるとよくある女性目線の失恋ソングのように思えはする。しかし、この藤ヶ谷さんの詞と、密やかな一人の夜を思わせるR&Bの曲調の親和性が非常に高い。加えて、歌声のベースとなっている藤ヶ谷さんと千賀さんの声もR&Bの曲調にぴたりと寄り添っている。これらがこの曲を良いと感じる理由の大前提としてあると思う。

しかしその二人の声とは別に聴こえてくる、もう一つの歌声がある。それこそがファルセット担当の横尾さんの声である。「この高音も藤ヶ谷さんか千賀さんが歌っているのかな?」と思ったら、違う。横尾さんの声なのである。二人の後ろから歌っているように聴こえてくる高音も、サビで堂々とソロを歌い上げている高音も、すべて横尾さんの声なのである。

初めてCD音源を聴いたときは、マジかよ、と思った。もちろん良い意味の「マジかよ」である。ここまで前面に横尾さんが押し出されてくるとは思っていなかったからだ。

そもそも『ConneXion』は藤ヶ谷さんがセルフプロデュースをした曲であり、制作段階の初期に横尾さんに「どんな音域が歌いやすい?」「何がやりたい?」など確認をした上で曲が作られていったらしい(その結果横尾さんはファルセット担当となり「歌は苦手だけどラップは好き」と答えた横尾さんのためにラップ詞が入った)。

その藤ヶ谷さんの思いの丈が込められているコメントがこちらである。

ドラマで言うならば、今回の曲はワタが主役で、オレらが2番手。主役を輝かせるために、がんばったよ。

―『duet』2018年8月号

 この一文が、『ConneXion』は横尾さんを歌唱のみで輝かせるために藤ヶ谷さんが用意した舞台であることを証明している。「歌う場所ぜんぶファルセット」という新たな試みにより、藤ヶ谷さんの思惑通り、『ConneXion』で横尾さんの今までにない魅力が引き出されている。藤ヶ谷さんの計画は見事に成功した。

そしてわたしは、藤ヶ谷さんと親和性の高い世界観の音楽に横尾さんが首を突っ込んだ、という事実に非常に興奮した。わたしが『ConneXion』をゴリ押ししたい気持ちの源はそれかもしれない。

わたしは正直、横尾さんが藤ヶ谷さんに音楽的に助けてもらうことはあっても、二人の音楽が交わることはないと思っていた(『わんダフォー』は二人で歌ってはいるが二人の音楽ではないと個人的に思っている)。それがこの曲で現実のものとなってしまったのだから、想定外の喜びが訪れたと表現しても過言ではない。

とにかく、横尾さんを応援する一ファンとして、横尾さんを最適な形でセルフプロデュース曲に参加させてくれた藤ヶ谷さんに感謝の意を述べたい。

 

 

ここまで歌詞の解釈やら制作背景など色々語ってきたが、まずは曲を聴いてみるに越したことはない。公式ページで試聴できるので、聴いたことのない方は是非聴いてほしい。→ DISC | Kis-My-Ft2 Official Website 
※スクロールして通常盤の『ConneXion』の横にある再生ボタンを押してください。 

あわよくば通常盤を今すぐポチっていただけるとより嬉しい。他のメンバーのユニット曲(『星に願いを』『Happy Birthday』)も違った良さがあるので、出来ることなら全てのユニット曲を一度聴いてほしい。

LOVE(通常盤)

LOVE(通常盤)

 

 

ユニット曲の物語性を感じさせるKis-My-Ft2の21枚目のシングル『LOVE』、どうぞよろしくお願いします!

 

 

 

 

*1:ちなみにtakeはこの辞書サイトによるとセックスするという意味もあるらしい……Oh……。

takeの意味 - goo辞書 英和和英