ごねんぶりにどめの

時代を嘆くなって、言ったじゃないか!

これからのあなたを見てついていきたい―『Summer Paradise 2018 内博貴公演』―

 

2018年8月26日、27日の2日間に渡って開催された『Summer Paradise 2018』内博貴さんの公演(通称『内パラ』)が終わった。公演2日目の朝に更新した記事 今日が終わってもまたあなたに会いたい―『Summer Paradise 2018 内博貴公演』― - ごねんぶりにどめの にも書いたが、平成最後の夏に15年越しの夢をようやく叶えることができた。

3公演とも入って、はじめは「この曲、分からないな……」となった曲が大多数だったけど、ラストではまるで全部の曲が最初から知っていたかのような気持ちで楽しんでいた。印象的だった曲についてかいつまんで書いていく。

 

『Fighter』(2曲目)
エイトののDVDで歌ってるやつーーーーー!!!!!という感想が真っ先に到来。懐古厨のわたしが定期的に見返しては「内くんかわいい……ほっっっそい……」となる、関ジャニ∞の唯一8人の映像が見られる映像作品『Excite!!』に収録されているV.WEST時代の曲がこれだ。V.WESTの曲をそこまで知らなかった自分にとって、この曲を最初の方で歌ってくれたことに、「知ってる曲だ」と少なからず安心感を覚えた気がする。
この後「欲しいものは愛じゃない、欲しいものは金じゃない!」と勝手に『STANCE』の歌い始めが流れるのを制していたのは初日限定のいい思い出(『Excite!!』でその順番で歌われるため)。

『Master key』(4曲目)
こんなに早くに来る!?心の準備できてませんけど!?となった。ピンクの照明でバッと照らされた内くんが最っっっっ高だった。最高すぎたので3公演中2公演泣いていた。「15歳くらいの時の曲やで?」「原キーやで?」って言いながら、ちゃんと原キーを求めているであろうファンに向けて三十路超えても原キーで歌い続ける内くん。『Master key』についての「原キーやで?」は代表的ツンデレ発言だとわたしは解釈している(ジャニウェブでもライブMCでも「原キーやで?」的な発言をしていた)。
2日目の2公演目は、流石に落ちサビなんかは苦しそうに聴こえたけど、音が狂ったりかすれたりすることはなく、それはそれで味がある、くらいの聴こえ方だったので喉が強いなと感心した。

『Crave it』(9曲目)
内くんが踊ったーーーー!!!!!光一くんありがとーーーーーーーー!!!!!と帝劇にいらっしゃるであろう堂本光一さんに感謝の念を送りながら見ていた(内くんは昨年のサマパラに来た光一くんに次のライブは踊れと言われていた)。初日に曲が終わってMCに入るとすぐに「踊ったで!」と言ってきたの、ザ・内くんって感じの可愛げがあってよかった。しかし当の本人、実はその約束を忘れていたらしく、思い出させてくれた人踊らせてくれた人みんなありがとう……となった。

初めてちゃんと踊っている内くんを見たんだけど(ザ・アイドルソングを踊る内くんならはるか昔に見た気はするが)、なんかこう、一言で言い表せない動きをするというか、「ジャニーズなら○○さんっぽい」という人が浮かんでこなくて、未だに上手く形容できる表現がないか模索している。ふわっとした軽いダンスじゃないんだけど、かと言って重量感のあるどっしりした印象を受けるかといえばそうでもなく、うーん……っていう状態。ただしもちろん下手ではない。全体的にぬるっと動いてる感じだけどたまにものすごい勢いでパキッパキッパキッて感じの動きをしていた、気がする……ダメだ上手く言い表せない。
踊ったことに対する興奮度が高すぎて書くのを忘れそうになったが、歌そのものも「アップテンポで程よくエロいジャニーズ曲」という感じで良い。特に衝撃を受けたのはサビ終わりの「♪俺を貪ってる」。「内くんの持っている歌声のエロそうな部分を全部集めました!!」みたいな歌い方をしていた。何ソレって感じな表現なのだが、とにかく、それまでの歌い方と全然違ったので理解が追い付かなかった。
2日目2公演目で左右に分けている前髪が落ちてきて顔にかかっていたのが、曲に合った性的方面に全振りのビジュアルだったので、オーラスのご褒美だと思ってありがたくこの目に焼き付けました。 

 『Without your love』(13曲目)
最初アカペラで歌っているスポットライトを浴びた内くんが、只々神々しかった。

『24時間 With me』(14曲目)
「♪1・2・3・Go!」の後に大体上見てほっぺをぷくーっとさせていたのが大層可愛かったので、モニターにそこをアップで抜かれてほしかったという事後報告ならぬ事後要望をここに書き残しておく。

『3ピース』(15曲目)
内くん関係ないんですが、ベースの矢花くんがとてもかわいかった。全体を通してステージの上を結構動き回る子だな、という印象を持ったのですが、特にこの曲ではキーボードの石垣さんの近くに駆け寄ってシンセサイザー?(楽器に疎いので違ったら誰か教えて……)を触らせてもらってる矢花くんとそれを楽しそうに見ている石垣さんという画が非常に微笑ましくてよかった。
2日目2公演目で、内くんが曲前にペットボトルに入ったステージドリンクを飲もうとしたんですけど、そこまでの時間的余裕がなくてペットボトル片手に持ったまま歌い始めたのは面白かった。どうしても水分補給したかった結果、内くんのサマパラなのに一瞬だけ石垣さんのソロができた(その間にステージドリンクを飲む内くん)。

『スキなだけTODAY』(17曲目、オーラスのみダブルアンコも)
内くんと一緒に会場が湧いてる一体感が気持ちよかった!ダブルアンコールの盛り上がりが「これで終わるんだ」という寂しさを微塵も感じさせなくて、しんみりしたラストが苦手な自分としては好もしい終わり方だった。

『Hi! Hi! HIROCKY』(アンコール2曲目)
内くんが曲中で一瞬音が止むところで「ありがとー」って言ってくれたことが嬉しかった。2日目昼公演は胸の前に手を合わせて、夜公演は天を見上げながら(初日は分からず。自分が気付かなかったのか、そもそも言っていなかったのかすら不明)。

 

歌についてはこんな感じだろうか。文章量からも伺えるように、今回の内パラですっかり『Crave it』の虜になったので、何らかの手段でいつでも聴けるようにしてほしい。

 

 

そして内くんがジャニーズwebの連載に書いていた「サプライズ」の正体であろう、メンバーによるお見送り。案外スタッフにすぐ剥がされることはなく、しっかり手と手を合わせて一言言うだけの時間はあった。

3公演入ったので3回ハイタッチをさせてもらったのだが、3公演目しかまともに覚えていない。3公演目ではじめてきちんと目を合わせてハイタッチすることができたからだと思う。ハイタッチする時に「ライブまたやってください」と言ったけど、本人の力でどうにかなるわけでもないか……?と会場を出た後で少し冷静になった。まあいいか、?

目の前で「ありがとー」と言われた。自分以外の観客にも同じこと言っているのを分かっていても、飛び上がりたくなるような嬉しさを感じた。

 

 

こんな感じで、大満足の状態で内パラから帰還した。

初めてこの目で見た内くんは、たとえその姿を見慣れてしまってもご本尊のような輝きを変わらず放っているように見えた。これからも可能な限り応援していこう、と決意を新たにした。

今回のライブでようやく内くんの関わっている曲を沢山聴いて覚えることができたから、早く次のライブに行って復習がしたい!と既に胸が高鳴っている。内くんの歌声をどこかにしまったままにしておくなんて勿体なさすぎる、とライブに行って改めて感じた。内くんの歌がわたしは大好きだ。

 

内くん、平成最後の夏に素敵な夢を見させてくれてありがとう。

「これからの僕を見てついて来て欲しい」と言うのなら、この夢を抱いたまま、あなたについていきたい。

 

 

 

 

 

 

******* 

おまけ 

内パラ終わりのテンションで趣味の悪いアクスタ遊びに興じていたのですが、ネタが早々に切れたので何かアイデアがあれば何かしらの方法でご連絡ください。船長にはそのうちなってもらいたいと思っているのですが……。

 

 

 

今週のお題「#平成最後の夏」

 

今日が終わってもまたあなたに会いたい―『Summer Paradise 2018 内博貴公演』―

 

2018年8月26日、『Summer Paradise 2018』内博貴さんの講演(通称『内パラ』)に足を運んだ。

 

わたしが初めて内くんを知ったのは2003年にNEWSがデビューした頃。錦戸担だったが、同じく2グループを掛け持ちし、雑誌やテレビ等で一緒に見かける機会の多かった内くんのことは他のメンバーとはどこか違う特別な存在として自分の中に位置づけていた。

あれから15年が経った。

それなのに昨日まで一度も内くんを自分の目で見たことがなかった。学生だったことやライブが開催される土地から遠方に住んでいたことから自由が利かず、画面越しの内くんを眺めているだけだった。去年のサマパラも平日開催が壁となり行くことが出来なかった。

わたしのだいすきな内くんの話 - ごねんぶりにどめの にも書いたが、わたしは“アイドルとして”歌って踊る内くんがとにかく見たかった。キラキラしている内くんを、10数年間凝りもせず自分の中に住まわせ続けていた。

 

ようやくその気持ちが報われるときが来た。

 

内パラでは、はじめに内くんを除いたバンドメンバー(キーボード石垣くん、ギター小川くん、ベース矢花くん、ドラム雑賀さん)が舞台袖からステージに出てきた。

石垣さんが内くん以外のバンドメンバーを順に紹介。そして最後に「内博貴!」と石垣さんの高らかな雄叫びのような声と共に、内くんが登場した。

内くんは他のメンバーのように舞台袖からではなく、ステージ後方にあるフロートのような、ステージよりも高い位置に立てるセットに乗って登場した。

 

「あ、アイドルだ」

 

内くんがパッと目に飛び込んできて、真っ先に頭に浮かんだ言葉がそれだった。初めてこの目で見た内くんは、思わず目を丸くしてしまうほどキラキラしてた。

誰かに叩かれそうなことを承知で言うけど、内くんの輝きのピークははるか昔、わたしが好きになった頃くらいに終わったと思っていた。最近は、ノリのいい関西のニーチャンだけど実は歌もそれなりにできるんやで、くらいの人に見えることがほとんどだった。

でも、TDCホールのステージの上にいた内くんは、発光して見えた。この人はライトの下で呼吸をしなければいけない人だと思った。

心の底からそう思った瞬間、俯いて少しだけ涙を流して、また内くんの方を向きなおしてその声に耳を傾けた。

 

 

平成最後の夏、15年越しの夢が叶った。

一つの夢の終わりは、新しい夢の始まりを告げる。「今年のサマパラが終わっても、歌っている内くんをまたこの目で見ること」がわたしの新しい夢だ。

 

ありがたいことに、今日もまた、内くんを見ることができる。あと2回も、神様のように神々しい光を放つ内くんが見られる。

今日が終わっても、またこの目で内くんを見ることの出来る日が訪れると信じて、祈りを捧げるように、最後まで今日の講演を見届けたい。

 

それでは、行ってきます。

 

 

 

 

担当を掛け持ちすることについて悩んでいるあなたへ

 

昨年、自分が「担当の掛け持ち」について割と真剣に悩んでいたことをふと思い出した。

当時ジャニーズWESTの重岡くんの担当を名乗っていたにも関わらず、突然火が付いたようにKis-My-Ft2の横尾さんに興味を持ち始め、担当って何?わたしの担当は誰?と自問自答する日々を送り、節目節目にブログで気持ちを発散していた。

 

しかし今となってはまるで別人のように、デビュー組だろうがジュニアだろうが少しでも興味を持つとほいほい手を出してキャーキャー騒ぐようになった。6月のKis-My-Ft2のコンサートでTravis Japanの川島如恵留くんにいきなりハマり始めたのがいい例である。

それと同時期くらいに、いっそ担当という概念を持たないほうが楽しいのかもしれない、という自論が芽生えた。1番を決めてしまうから他のものを2番以下にしなければならないんだ、それなら1番なんていらないじゃない、担当なんて宣言しなくてもいいじゃない、と考えるようになった。

 

そのようなことを考えていた折、昔読んだ一冊の本を思い出した。平野啓一郎著『私とは何か―「個人」から「分人」へ』という新書である。

ざっくり言うとこの本では、人間を、分けることの出来ないひとつの「個人」ではなく、分けることの可能な「分人」として考えよう、という話をしている。別の言い方をすると「オモテの顔/ウラの顔」「本当の自分/ウソの自分」というモデルを廃し、すべて「本当の自分」であるという見方をしようという考えを提示している。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p7

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは必ずしも同じではない。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p7

 

これを掛け持ちの話に当てはめてみる。

まず一人の人間を「個人」として捉えると、「Aくんを好きなわたし、Aくん担当のわたしが本当の自分。最近Bくんのことが気になっているけど、本当に好きなのはAくんだから、Bくんを好きな自分は本当の自分じゃない」となる。つまり「Aくんを好きな個人」として存在していることになる。

一方「分人」という概念を導入すると、「Aくんが好きだけど、最近Bくんが気になってきた。Aくんを好きな自分とBくんを好きな自分が同時に自分の中に存在している」となる。こちらは「Aくんを好きな分人と、Bくんが気になってきた分人が、共存している個体」ということになる。

前者は、過去の自分のように、自身の中での「わたしは一体誰が好きなのか」という葛藤が生じる予感を匂わせる思考回路だが、後者は分人同士がぶつかり合うことなくフラットな関係が成立している。

つまり特定の人物の担当を名乗るということは、そうではない自分をまるでニセモノのように扱うことにつながりかねない。しかし、Aくんを好きな自分もBくんを好きな自分も自分の中の「分人」として等しく扱うことで、好きな人が増えた自分をすんなり受け入れやすくなる気がする。

 

誰かを愛することは、誰かを愛している自分を愛することでもある。Aくんを好きな自分のこともBくんを好きな自分のことも等しく好きならば、それでいいのだと思う。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。(中略)他者を経由した自己肯定の状態である。

平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』p136

 

実際に自身を顧みて思うのは、新しく誰かを好きになった自分に出会うことは、シンプルに楽しい。Aくんを好きな自分とは違う、Bくんを好きな自分に向かって、「お前そんなヤツだったんだ!知らなかったよ!」と思わず声をかけたくなる。同じ人間の中で起きている出来事のはずなのに、まるで親しい他人がいきなり出来たような感覚に陥る。

おそらく大抵の人は、人に頼まれたから誰かを好きになっているわけじゃない。誰かを好きになるのは、すべて自分の選択の結果だ。だから、好き勝手にいろんなものを愛して、その度に新しい自分と出会って、その出会いを純粋に楽しめばいいと思う。他人を愛することは、未知の自分に出会える有効的手段なのだから。

 

 

この世界にどれだけ存在するか分からないが、もし過去の自分のように、掛け持ちについて悩む人がいれば、複数のものを愛したくなった自分を受容しやすくなる思想として、頭の片隅に入れてもらえたら嬉しい。わたしは今、たくさんのものを好きになることが、只々楽しい。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)